Ⅳ 羽休め
転移獣を操作し、影伝いに移動してアリエルとルカを確保。すぐさま遺跡を脱出して辿り着いたのは、戦場から遠く離れた低木林に建つ古びた小屋の中だった。
《『反転』!》
イザベラは転移してきた相棒の右腿に刺さっていたナイフを抜くと、すぐに『反転』の陣を起動させる。
たった数秒横たわっていただけで、青年が寝ていた場所には小さな血溜まりができていた。
「無茶しすぎだ、バカが」
魔方陣から姿を現した妙齢の美女は床に残った赤に目を落とし、責めるような目つきで黒本を睨む。
殺される寸前まで追い込まれたことはあっても、実際に死に至るような傷を負ってきたのは初めてのことだった。
《…………あぁ》
辛そうに返事を返した本を、美女と少女は心配そうに見やった。
「喋るな。今は身体を治せ」
イザベラは黒革の表紙に手を当てて、内部で『治癒』の術式を発動させる。
本の内部は精神と肉体の情報を縛っておくため、少々違法な手段ではあるが魔術に使われる分とは別途で恒常的に多めの魔力が維持されるようになっている。
そのため、内部で発現した術式は外に影響を及ばせはせずとも、保存された情報に対して効果の分だけ干渉し、しかもそれが通常の何十倍もの長期に渡って効果を発揮し続けるのだ。
しかし、内臓や筋肉といった体組織が多大な損傷を受けているルカの身体では、違法の策を利用した半永久的な術式でも足りないくらいだった。
情報体である間はあくまでも情報であるので、老化や死という概念がなくなる。少なくとも、本の中にいれば死ぬことはない。痛みなどはそのままなので、しばらくは辛い本内生活に耐えてもらうしかなかろう。
ある程度回復したところで、本格的な縫合等の処置をしなくてはいけない。彼本来の治癒力ではやはり限界がある。
幸いにもここは先ほどの遺跡にも負けない辺境で、もちろんのこと付近に民家はない。回復し、動けるようになるくらいの時間は停留しても問題ないはずだ。
「イザベラさん……」
「ん? あ、あぁ、どうした?」
思考の中を彷徨っていた意識が、アリエルの呼び掛けによって戻ってきた。
言い出そうか悩んでいた少女はやがて、決心したようにイザベラの瞳を真っ直ぐに見据える。
「わたしに、魔術を教えてください」
「……どうして?」
イザベラの声が不意に低くなった。
「……わたしが何もできなかったから、ルカさんを危ない目に……」
「罠の解除にも一役買った、ルカを庇いに行った。何もしてなくなんかないぞ」
「でも、わたし……!」
食い下がるアリエルの頭に、イザベラは軽く手を乗せる。
「魔術があれば、魔術がないから。人は困ればそう口にするが、魔術は万能でもないし力そのものでもない」
「そう……なんですか?」
「そうだ。だから『治癒』があれど、医者がいる。『治癒』は自己修復の手伝いをしているだけで、本質的に治すわけじゃない。ルカの怪我も、術式一本じゃ治せない。魔術は確かに便利ではある。けど、魔術だけで何とかなる状況なんて、高が知れてるよ」
諭され、黙ってしまった少女に、イザベラは話を続けた。
「自身の魔術を信頼している奴が、それだけでどうにもならなくなったとき、感じるのは何だと思う?」
「……?」
その問に、少女は首を傾げる。
「絶望だ。考えなくては動物と変わらない人間が、考えることを放棄する。そこからは進歩も進化もない。ただ魔術があれば何かできるとか思ってんなら――」
「でも!」
言葉の続きを、アリエルは強く遮った。
大声を上げた少女にイザベラは目を見張る。
「今のわたしじゃ、この先ルカさんに迷惑ばかりかけます絶対です。だから少しでも、お荷物じゃないようにしたいです」
「子供の内はお荷物でもいいんじゃないか? 子供が自分の手元でお荷物じゃなくなっていくのを、人は成長とかって喜ぶんだから」
イザベラの反論にも、アリエルは大きく首を横に振った。
「ルカさんは、きっと戦ってるときにもわたしたちのことを考えてました。あのとき、わたしがいなかったらイザベラさんと一緒に戦って、ちゃんと帰って来れたんだと思います。わたしたちのことを気にかけてたから、すぐに逃げるように言いに来たんでしょう?」
「……たぶん、な」
ルカの声を聞くなり最下層に踏み込もうとしたのは、アリエルがそれを自分のせいだと考えていたからなのかもしれなかった。
「だったら、せめてイザベラさんと一緒のときくらいは心配されないようになりたい。今のわたしじゃどうにもならないから、何かを変えたいんです!」
「…………」
「あなたも何かを変えるために魔術を学んだんじゃないんですか、イザベラさん!」
アリエルの熱弁に、イザベラは思わず笑みを零した。かつての自分が状況を打開するために変わろうとしたように、目の前の少女はルカのために変わろうとしている。
この少女の志を後押しせずして、なんとせよと言うのだろう。
「覚えておくこと」
「な、なんでしょう……」
「魔術は誰でも使えるわけじゃないし、上手く利用できる条件も限られてくる。ただし、その条件を決めるのは術者の力量だ。魔術を使うなら、何が何でも諦めるな。満足もするな。自分を過信しない程度に、高めることを考えろ」
「は……はい!」
イザベラの激励に、アリエルは緊張した面持ちで頷いた。
「とはいえ、無謀と挑戦は別物だから、引き際は自覚するように。今日はもう遅いし、飯食って寝るか」
ふと目をやった窓の外はとっぷりと日が暮れ、ランプが照らす室内に月光が入り込んできている。
(まぁ、本人は気付いてないだろうけど……ぞっこんだな)
本の中で休息する相棒に向かって、努めて意地悪く微笑んだ。
「頑張れよ……フフッ」
虫の声に上書きされるほど小さな声で呟き、これまた一人おかしそうに笑う。
朝日が閉じた瞼を通して視界を赤く染め上げた。
ちょうど眠りの浅かったイザベラは、目に直接当たってくる陽光に顔を顰めながらも瞼を開いて体を起こす。
まだ時刻は五時くらいだろうか。隣の寝床ではアリエルが規則的な寝息を立てていた。
イザベラは寝袋から抜け出すと、机の上に置いてあった本を開く。裏表紙の見開きには本の中にいる人間の詳細な身体情報と精神状態が記されていた。
(精神状態は良好。脳、脊髄、心臓ともに異常なし。肺と胃腸の一部が欠損、小腸大腸ともに断裂状態、腎臓にも傷……横隔膜が八割方元に戻ったあたりで全部縫い合わせるか)
確認を終えると、イザベラは本を閉じて小屋を出る。
身体を自由に使えるようになっても、なぜか王宮の依頼に手をつけようとは思わなかった。今はそんなことをしている場合ではない、とどこか冷静な自分が現在を最優先させているかのようだ。
どうやらルカのことを慕っているらしい少女に魔術を教えたり、致命傷を負った相棒の世話をしたりと、考えればそれなりに忙しい。
ルカの身体が動かせるようになるまでの間は、その二つに従事しておくことにした。
食料はだいたい二週間分の蓄えがあるので心配しなくてもいいだろう。
考えながら歩いているうちに、小屋を出たときには聞こえなかった水音が聞こえるようになっていた。
契約してから約三年、霊媒術を使役したとしてルカが手配されるまでの間はあの小屋を基点として活動していたので、近隣の地形はまだ覚えているはずだ。
七年ほど前の記憶を辿って歩を進めると、視界から低い木々が減っていき、澄んだ水がとうとうと流れる川が現れる。
少しばかり上流には池のような場所もあったはずだ。
川は腰まで浸かれる水深でありながら、澄み切った水を通して川底や泳ぐ魚の姿がよく見えた。食べ物に困ったら魚にお世話になろう、と手を合わせる。
特に深い意味はない黙祷が終わると、膝を折って川の水を掬い、未だに眠気の飛びきっていない顔に叩きつけた。
季節は冬とは程遠いが水は雪解けのように冷たく、およそ眠気と呼べるものは一瞬にして吹き飛ぶ。
イザベラは膝下を川の流れに浸して、しばらくの間昇っていく太陽を眺めていた。
体内時計で二時間と少しが経過した頃、小屋に戻ると扉を開閉する音でアリエルが目を覚ました。
「お、起きたな」
「ふあ……おはよーございまふ」
咽喉の奥まで観察できそうな大きな欠伸を一つして、アリエルは丁寧に頭を下げる。
だが、依然として睡魔との決闘に余念がないらしい。
「ほれ」
「ぅひぁ!?」
川の水でひやりと冷たい手を背中に入れてやると、アリエルは頓狂な悲鳴を上げた。
寝起きの子供の体温が冷え切った掌に心地よい。
「イザベラさ……ひゃあぅ」
「もう片方〜」
特に抵抗がないので、もう一方の手も背中に当てる。
冷えた手に身悶えるアリエルと戯れていると、顔におかしな紙切れが貼り付けられた。
《アホか》
紙にはよく知る文字で、一言だけ書かれていた。
「……少しは戻ったか?」
アリエルの背中から手を離し、イザベラは机上の本に問いかける。
本は万年筆で近くの紙切れに何か書き留めると、それを二人の方に寄越した。
《まだ体中痛いが、このくらいなら何とかなる》
一晩中掛け続けていた『治癒』の術式は多少の効果を発揮したようである。
しかし、イザベラの理想では声が出せるようになるまでは本の中で術式に浸ってもらわないといけない。
縫合が済んだ後もそれは続くので、まだ喜ぶには早すぎる。
「飯は?」
《いらない》
ラグはあるが問題なく会話ができそうなので、イザベラはひとまず安心した。
「アリエル、何食べる?」
何とは言っても、そう豊富に選択肢があるわけではない。彼女は目玉焼きすらまともに作れないので、料理を言われたらどうしよう、と内心冷や冷やしていた。
「パン、食べまふ」
あれだけ背中を冷やしてあげたわりに、アリエルの声音はどこかを彷徨っているように不安定である。
(よ、よかった……)
パンなら買い置きがあるのだった。
「はい、ここ座って」
丸椅子の上に山積みになっていた埃を簡単に払って、少女をそこに座らせる。
倉庫の中から取り出した小ぶりの白パンにジャムを塗って渡し、自分の口にはラスクを二、三枚放り込んだ。
喋れないとはいえルカの監視もあるためか、アリエルの食事は比較的平和に終わった。
その頃には目も冴えてきたようで、へなへなとした雰囲気はどこかに消え去り、いつもの年齢に不相応な落ち着きと大人っぽさが戻ってきている。
「……で、魔術を教えて欲しいってのは一晩経っても変わってない?」
「はい」
イザベラの最後の確認に、アリエルは迷うことなく返答した。
「それじゃあ、攻撃系とか造形とか教えても意味ないだろうし、防御系と補助系かな」
《『隠形』は使えた方がいいだろ》
すかさず放られた紙切れを読んで、それもそうかと頷く。
「だ、そうだ。カラーディヴィの結果にもよるけど、まずは健康診断、魔力総量の測定な」
「な、なんですかそれ?」
つらつらと専門的な用語を並べ立てながら様々な道具を取り出しているイザベラに、健康診断以外理解できなかったアリエルはどこか不安げに聞いた。
だが、そんなことは意に介さない様子で準備は進められていく。
「まぁまぁ、あ、椅子もうちょいこっちに寄せて。そうそう。えーと、起動よし。アリエル、腕出して、両方と。んー……はい、これでよし……じゃない、忘れてた。これ、しばらく咥えててね」
「はぐっ!?」
机の上には簡易式の表示機器が置かれ、アリエルの腕にはそこから伸びた色とりどりかつ種類豊富な配線が主に動脈に沿って貼り付けられている。小さな口に突っ込まれたのは、いやに径が太い温度計のようなものだった。
「すぐ終わるから」
傍目には重症そうな格好で五分ほど放置すると、ようやくイザベラは腕の計器類を外し始める。
「口のはまだ取っちゃダメ」
「んー……」
アリエルは口に咥えたままの温度計――正確にはそれこそが魔力測定の器具であるのだが――も取れると思っていたので、少しばかり眉根を寄せた。
もうちょっとだから、とむくれる少女の頭を撫でて、イザベラは機器の表示を確認する。
「よしよし、いたって健康体だな」
全ての値が正常範囲内であることを確認し、検査器具の方に目を向けた。
「お、おぉう」
アリエルの咥えるガラス管を見たイザベラは、思わずその身を引く。
管の中に満ちた青い液体は、一万と二万の目盛りの間を増えたり減ったり、でたらめに変動していた。
ここに表示される数値はあくまで目安であり、多少の変動はあるものなのだが、さすがに一万は大きすぎる。
液溜まりの液体は魔力に反応して膨張するという特性のもので、その原理は見た目に違わず温度計と変わらない。
つまり、少女の魔力はそれだけ激しく増減を繰り返しているということだ。俄かには信じ難いことだが、それは事実に違いない。
《どうした?》
「いやー、ちょっと値が安定してなくてな」
差し出された紙切れに微妙な表情を返す。
《それはそうとして、術式を吸収する結界ってあったか?》
「いきなりどうした。まぁ、ないことはないけど……」
そう言いながらアリエルに視線を戻しかけたイザベラは、言葉を途中で止めて難しい顔をする。
「ルカ、アリエルの話だよな?」
《ああ》
「……ふーん。吸収か」
何か思うところがあるのか、少女の傍らに腰を下ろした。
「アリエル、ちょっとそのままな」
イザベラは問題の目盛りに目を釘付けにして、早口で詠唱を始めた。
窓から差し込んでいた光が瞬間的に凝縮し、アリエルの脚部目掛けて放たれる。光式の中級攻撃魔術は寸分の狂いもなく華奢な足を穿とうとしたところで、肌の中に吸われるようにして消えた。
「……そういうことか」
そう呟いた視線の先で、目盛りの下限は一万一千、上限は二万一千に変化している。
単なる無効化ではなく、攻性の術式に込められた魔力を吸収し、還元して内部の者に分け与える。主に遺産の保護であったり、ごく稀に戦争での後方支援部隊などにも用いられている高級結界だが、それが少女にかかっているというのはいったいどうしたことだろう。
その上、この手の結界は維持に大変な魔力を消費する。遺産は己で魔力を作り出すというものもあるため疑問はないのだが、戦争で用いられる場合は長くても一分程である。さらに長時間使用する場合は魔力を作り出す遺産を利用するのが普通だ。
(アリエル自身遺産だったり……しないか)
バカな想像をするものではない。魔力値が正確でないのは結界のせいだろうと強引に納得し、イザベラはとりあえずのその場しのぎで自分の好奇心を宥めた。
「……加護だな」
天恵なのだということにして、アリエルの口から検査器を抜き取る。
「ぷはぁっ」
煩わしさから解放されたアリエルは、これでもかと酸素を味わっていた。
少なからず思うことはあるが、それを少女相手に話しても無駄なことはわかっている。
(後でルカとも話さねーと)
「ふぅ……さて、総量は特に問題なしだ」
「本当ですか!」
「おう。お次はこれ」
一息吐いたアリエルに、イザベラは掌に納まるほど小さなビンを見せた。
「えっと、それは?」
「カラーディヴィって薬。説明するより、やった方が早いな」
そう言うと、グラスの水に小ビンから半透明の液体を垂らす。次いで、その中に自分の髪を一本落とした。
すると、水に浸かった髪は見る間に赤い色を滲ませ始める。
「と、まぁこういうことだ」
やがて、グラスの中の水は鮮血と見紛うほどの真紅に染まっていた。
「魔術には補助術、造形術、防御術、攻撃術って種類がある。で、この薬はどれが得意かってのを見分けるのに使うんだよ。補助なら青、造形なら黄色、防御なら緑、攻撃なら赤って感じで色が変わるわけ」
「なるほど……」
「ま、とりあえずやってみ」
完全には納得していない様子の少女に、イザベラはビンの中身を加えた水を差し出した。
アリエルは髪を抜くと、恐る恐る金糸のようなそれをグラスの中に落とす。
あっという間に発色が始まり、水の色は深海を思わせるような深蒼色になった。
「補助系か」
『隠形』を含め、強化や妨害に関係するものはすべからく補助術の類となる。得意な術種ほど呑み込みが早くなるため、アリエルにとっては実に都合のいい結果であった。
「よし、これでやることは一通り終わりだ」
気持ちを切り替えるように息を吐いて、イザベラは深呼吸している少女に呼びかけた。
「今日の内に一つくらいはできるようにしよう。時間はたっぷりあるからな」
ニィ、と笑う美女の前でアリエルは己の覚悟を確かめるようにゆっくりと頷く。
《まぁ、頑張れ》
ルカがアリエルに渡したメモはどこか憮然としていたが、少女にはそれだけでも十分だった。
術式は四つの種類に分かれ、それらはまた影を触媒とするか、光を触媒とするかによって二つに分かれる。造形、攻撃と防御の三つは当初から研究と改良、強化を繰り返され、より実戦的なものへと進化を続けていたからである。
影は発動のための時間を犠牲に強さを追及し、光は出の早さを最も重視している。
ただ、補助術はそれらの術式と違って復興当初から既に完全に近い水準だったため、そういった系統での区分は存在しない。
威力だの発動だのに関して、触媒が何であろうが大差がなかったことも一因である。
そんな補助術は複雑な歴史を持っていないが故に、文言や発動のコツも易しいものが多く、アリエルのような子供でも習得しやすい部類の術だといえる。
イザベラは講義のような形で、少女に各術の大まかな歴史を教えていた。
日の位置から推察するに、時刻は午前十時を回ったところである。
ルカは熱心に授業をするイザベラとこれまた熱心に聞き入っているアリエルを、どこか遠い世界の住人でも見るかのような気持ちで眺めていた。
「というワケだ。アリエルには現代までに開発された術式も含め、最古参である補助術を勉強してもらう」
「がっ、頑張ります!」
ルカがやれやれとため息を吐いて肺の激痛に悶えていることを、二人は知らない。
教えるといったものの、実際にイザベラがアリエルに教えたのは『隠形』の詠唱と魔力の扱い方だけだった。
補助系の詠唱は出の速さを重視して短めなので、魔方陣を利用するよりもこちらの方がアリエルに向いているだろう、という合議の上での判断である。
そうはいっても魔力の扱い方は、
「魔力と血は感覚的に似てるから、体中の血が自分の言霊と一緒に抜け出ていくのを想像しろ」
「は、はぁ……」
「それで魔力が引き出せれば、言霊とお前の想像しだいで術式が発動する。要はしっかり魔術に対する意識を持て、以上!」
「……えぇ!?」
という、説明だかなんだかイマイチ曖昧なものだった。イザベラ自身そうやって教わったというので、文句はつけられない。
ルカはそれでアリエルが理解できたとは思わなかったが、自分も恩師からは曖昧な説明で教わったので傍観することにしておいた。
適性があることが前提だが、言われる通りにしておけばそのうちできているのである。ただ、それ以降伸びるかは個人の力の入れようによるところが全てだ。
詠唱を教えているときの余談として、イザベラはまた少し授業をしていた。
詠唱については、魔方陣の持ち運びがいい加減嫌になった者が代わりに使えるものとして言霊を提案したのが源流である。その後、魔方陣の解析から始まり……と、魔術復興とほぼ同じように心血を注いで作り出されたものなのだ。
その発展は数学にどこか似ているものがないこともない。
ちなみに、いい加減嫌になった者は姓をイリュージアといい、現王家の数代前にあたる人物で、詠唱の開発で勢力を拡大したイリュージア家はあれよあれよと王の座にまで担ぎ上げられたのだとか。もう二百五十年ほど前の話である。
ルカは先刻の授業を含め、これで八回目となるその話を雲の数を数えて聞いていたが、アリエルが王家の話になると放心したようになる様子は彼を多いに苦しめた。
そのたびにイザベラは少女の目の前で手を振って現実に連れ戻す。しかし、少女は少し謝った後またどこかに意識を飛ばしてしまい、三度ほどそれが繰り返された。
その一連の漫談で思わず笑ってしまい、臓器に多大なる悪影響を及ぼしたのであった。
今はアリエルの意識もしっかりと体の中に留まっているようで、詠唱しながら意識を自分全体に向ける、という特訓を行っている。
詠唱が終わった後、何とか消えようとしているアリエルの姿は陽炎の向こうにいるように揺らいでいるが、姿を消すには至っていない。
「何事も試行錯誤するもんだ」
イザベラはそう言って呑気に紅茶など啜っている。
捉え方によってはあれこれ指図するより厳しいこの態度にも、アリエルはめげることなく練習を繰り返していた。
時折「もう少し体全体に魔力を伸ばす感じで」とか「意識するのは透明じゃないぞ、誰にも気付かれないこと」などといった助言が飛ぶ以外は、イザベラが紅茶を飲む音とアリエルの詠唱、外で小鳥が遊ぶ声くらいしか部屋には響かない。
昼食を取ることなく時間は過ぎ、太陽が南中高度に到達してから少し過ぎた頃。
「わぁ!」
一人練習を続けていたアリエルが歓声を上げた。
「おー」
目をやると、少女の肘から先が綺麗に消失している。習い始めの頃は、意識の向けやすい腕や脚などの末端に術式が発現するのが一般的だ。
ふとすれば全身が消えるよりもおぞましい光景だったが、イザベラは感心したように吐息を漏らす。
練習を始めてまだ三時間程しか経っていないにしては、見事な消え様だった。カラーディヴィで深蒼色が現れただけのことはある。
古代言語の発音が美しいことも、言霊をより強くしているのかもしれない。
「ルカのときは魔術適性の道具なんてなかったからな……お前は呑み込みが早くて助かるよ、アリエル」
大昔、ルカに魔方陣式の『隠形』を教えようとして丸一日かかっても爪の先すら消えなかったことを思い出し、イザベラは遠い目をする。
《飯は》
余計なことを混ぜっ返されたくないのか、やや乱雑に書き殴ったような字のメモ書きが頬に叩きつけられた。
「うわ、もう一時過ぎか……アリエル、ちょっと休憩」
机の上に置かれた時計を見て、イザベラはようやく時間の流れを思い出したらしい。
「あ……はい!」
例によって料理らしいものが食卓に並ぶことはなく、生野菜の上にハム二枚、主食はパンである。挟んでいないだけで、先日のサンドイッチと何一つ変わりはない。買ったものの種類がそう豊富ではないので、それも仕方のないことではあるのだが。
アリエルは休憩などしているよりとにかく練習がしたいようで、皿の上を口の中に掻き込んで水分で飲み下している。
《ちゃんと休憩しないと、魔力の使いすぎで倒れるぞ》
行儀の訂正と忠告を兼ねた紙切れがアリエルに提示された。
「使いすぎ?」
「んむ……魔力もただじゃないからな。実はけっこう体力使ってんのよ、あれ」
意味を図りかねると首を傾げた少女の疑問に、お行儀良く一口大に千切ったパンを飲み込んでイザベラが答える。
そうそう簡単にへばってしまうわけではないが、慣れない魔力操作を長時間行うと、翌日は魔力の消費からくる異様な疲労感があったりする。
体力と同じように、ある程度休息を取ることで魔力は回復するため、こまめな休憩は実は重要なことなのだった。
しかし、一度もそういった症状に悩まされたり、使いすぎで倒れたことのない体力自慢もとい、ルカ曰く魔力バカはそのことをすっかり失念していた。
術式の習得までは魔力の使い方に無駄が多いので、余計に気をつけなくてはならないというのにである。
「そ、そんなこと言ってなかったじゃないですか!」
「えー……あー、そだっけ?」
ごまかし笑いを浮かべたイザベラに、少女は困ったような怒ったような顔をした。
《昼寝しとけ、昼寝》
「でも……あふ……へへ」
反論を試みるも途中で欠伸をしてしまい、アリエルは照れくさそうにはにかむ。
「二時間くらい経ったら起こすからな」
「お、お願いします」
昼食を終えて用意された寝袋に身を横たえると、少女はすぐに寝息を立て始めた。
「……で、一日とちょっと面倒見てみてどう?」
アリエルが寝ているのをいいことに、イザベラは指先で柔頬を突いている。
正確に言えば、後半はほとんど本の中で静養していたので実働時間は十八時間といったところだろうか。
《ガキっぽくないから、今のところ思ってたよりは楽だ》
ややあってルカがそう書いてみせると、イザベラは遠慮なく苦笑した。
《つか、まだそれらしいことはしてない。飯食って、ちょっと護衛しただけ》
それでも、子供特有の図々しさが苦手なルカと、妙に物静かな感じがあるアリエルはそう悪くはないと思えた。親睦が深まるには少しばかり時間がかかるだろうけれども。
「まぁな」
ルカが治るまでしばらく面倒を見るのはイザベラなので、あながち他人事とも言い切れないというのが現状である。
この期に少しばかり彼女が言うところの教育を施そうかと全く思わないわけではない。だが、相棒が縦長の瞳孔で睨んでくるのは考えるだけでも寒気がするし、アリエルも付き合ってくれそうな雰囲気ではないので自重しておくことにした。
《それで、何か用があったんじゃないのか?》
あまりにもすることがない場合を除き、イザベラが理由なくしては話し掛けてこないことをルカは長年の付き合いで知っている。
今はアリエルの寝顔を弄って遊ぶことが優先されるはずなので、話を振ってきたからには何かあるのだろう、という簡単な推察があったに違いない。
その推量はほぼ正解だった。
「あぁ、そうそう。アリエルに魔術が効かないワケを教えてやろうと思って」
《わかったのか?》
アリエルを連れていくことになった大元は、少女がルカたちの『隠形』を見通したことである。その原因となったものが何なのか、二人は口に出さずとも気にはなっていた。
「ちょっとだけな。いろいろと術式が改変されてるとは思うが、あれは高級結界の『還元』だろう」
『還元』はその名の通り、結界に攻性魔力が侵入した場合に、その魔力を術式として練り上げられる前の状態に還元して内部に分け与えるというものである。ルカの吸い込まれた、という認識は正しかったといえる。
また、還元されるのは攻性の魔力だけなので、補助系の術式が正常に起動したことにも説明がついた。選っている、という推量も間違ってはいなかったらしい。
『隠形』を見透かすだとか、『消音』していても音が聞こえるだとかは術効果の範囲外なのだが、術式を組み合わせていることも考えると、その限りではない。
目視であるが、肌に吸われたように見えたことから考えて、アリエルにかけられている結界は二枚目の皮膚が如く身体に合わせて張られていると思っていい。
《それって、確かやたらと燃費の悪いやつだよな》
術式に聞き覚えがあったらしいルカは、記憶の底を浚うようにゆっくりと文字を綴った。
「まぁ、よくはないな。お前の魔力量でも、五分使えたら良い方だろう」
どちらかといえば低級に分類される『隠形』を張り続けようと思うと、ルカの場合は三日ほどで魔力の使いすぎによる過労が訪れるくらいだ。
魔力効率としては八百六十倍程度の差があることになる。『隠形』が十四時間半かけて使う魔力を、『還元』はたった一分で使ってしまうのである。
《そんなもん、アリエルが使えるとは思えないんだけど……》
技術的な面もあるだろうが、やはりそれ以上に魔力量のことだ。
仮にアリエルが、ルカを庇ったあの瞬間から今まで術式を発動していたとすると、どれだけ少なく見積もっても彼女の魔力量は常軌を逸した値になってしまう。
国家の術師団一つの総力をもゆうに上回るそれは、もはや人ではなく化け物と称した方が適切だろう。
せいぜい総量二万程度のあの少女に、それを成すだけの力はない。
「私もそう思う。解析は不可能だろうが、ある程度の能力と情報は割り出せるはずだ」
《ああ、任せるよ。俺はもう少し休む》
ルカは魔術の無効化の原理が少々知れたとあって、この件に最たる興味はないようだった。
(こりゃ、いよいよ面白くなってきたな)
目と指を眠っている少女の方に戻して、イザベラは好奇心の滲んだ顔で笑っていた。
「アリエル、時間だけど?」
予定通り二時間と少し経ったところで肩を揺らすと、寝袋の中からもそもそと眠気の塊が姿を現した。
「……んー……」
アリエルは何事か不明瞭なことを呟きながら、眠そうにとろんと下がった瞼をしきりに擦っている。
「眠いならまだ寝ててもいいぞ。練習する時間はいくらでもあるし」
いくらでもというわけではないにしろ、ルカが完全に回復するまでの少なくとも二週間は自由に時間を使うことができる。
寝起きの頭がそれをしっかり聞き届けているかは定かでなかったが、練習という単語を
聞くなりアリエルははっと目を開いた。
イザベラはその反応の早さに苦笑しつつも、少女の心境を鑑みればそれも当然のことかと思い直す。
何であれ初めて技術に触れ、それが自分の手に収まっていく感覚は実に爽快な心地がするものだ。伸び始めの時期には、暇さえあれば練習したいという意識にもなろう。
勤勉そうな少女はそれが特に顕著なようだった。
「これ飲んでみ」
イザベラはグラスに赤く色づいた半透明の液体を注ぎ入れ、アリエルに手渡す。
言われるままに口をつけたアリエルは、口中の痛覚神経を刺激されて激しく咳いた。つまるところ、この液体は相当に辛い。
「う、うぅ……」
恨みがましくこちらを睨んでくる少女に、イザベラは飄々と言葉を返した。
「目、覚めるだろ?」
それはそうですけど……と目で語り、アリエルはグラスの二割を満たす辛味と美女の間で視線をうろつかせる。そうして、何を思ったかグラスを一息で空にした。
「あ、ちょっ……」
制止が間に合わなかったイザベラの前で、アリエルの顔色はみるみる赤くなっていく。
少女の口の中では煉獄の大火が燃え盛っていることだろう。唐辛子の絞り汁は起きたいときにちびちび飲むものなのであって、決して一気に呷るものではないのだ。
「何も全部飲まなくてもいいのに」
無謀としか思えない蛮行に及んだアリエルを、微々たる尊敬と最大級の呆れを込めた声音でたしなめる。
「何事も自分の体と相談すること、わかった?」
開いた口唇の隙間から、少し大きめの角砂糖を忍ばせてやった。
はらりと崩れた砂糖を口の中に馴染ませながら、少女は戻りつつある顔色でこくこくと頷く。
「よし。じゃ、続きするか」
見ているだけのイザベラは、そう言って定位置の揺り椅子に腰を下ろした。
砂糖を水とともに飲み込んで、アリエルは部屋の中央に立つ。
「一時間に二十分くらいは休憩しろよ」
アリエルの練習量を考えると二十分でも少ないくらいだが、イザベラの時間設定にしては良心的であった。
「わかりました」
いたって真剣に返答し、少女は言葉の羅列を紡いだ。
アリエルの姿が完全に消失したのは、一つ目の月が地平線から顔を出した頃だった。
「きゃ――――!!」
「んぐぉっ!?」
その歓喜の悲鳴はうたた寝していたイザベラを叩き起こすには十分だったようで、椅子の上で揺られていた彼女は飛び起きた拍子に落ちそうになる。
「なっ、何? 何?」
部屋を見渡しても何もない。聞こえたのがアリエルの声だったことを今更ながらに思い出し、いよいよその術が及第点に達したことを察した。
「イザベラさん、わたし消えてますか!?」
少女の声は未だに冷めやらぬ興奮をそのまま湛えている。
「良い感じだ。じゃ、忘れないうちに反復練習な」
「はい!」
アリエルが手を打つと、そこから滲み出てくるように小さな姿が現れた。
すぐに目を閉じて意識を集中させ、一字一句を噛み締めながら発音を始める。すっかり口慣れたのか、詠唱の速度もずいぶんと上がっていた。
アリエルが口を閉じると、四肢の先から徐々に輪郭や色彩が薄れ始め、それが全身に広がるとその姿は景色に溶けて見えなくなる。
その一連を観察し、イザベラは満足そうに頷いた。
「……うん。あとは何回もやって、頭に消えるときの意識を擦り込むだけだな。お前なら、詠唱が終わった瞬間に消えれるようになるよ」
再び姿を現した少女は自分だけの力で魔術が使えたことの達成感に顔を輝やかせてはいるが、どこか疲労の色が顔を出しているのも確かである。
「ちょっと早いけど、寝るか」
見回すと、黒本は悲鳴に飛び起きることなく寝息を立てていた。
中身を起こさないように倉庫からそっとオレンジを取り出して、皮を剥く。甘味と酸味を備えた柑橘類が疲労感を和らげてくれることを、イザベラは生前九十年近い人生の中で知り得ていた。
「このくらいは食べときな」
十程の房を半分に分けてアリエルの手の中に落とし、手元に残った五つをまとめて飲み下す。
この小屋に設備としての風呂は存在しないので、『浄化』の式をかけることで代用しておいた。
夜の肌寒さが押し寄せてくる前に、日干ししていた寝袋を取り込んで床に敷く。
「明日、昼飯のときにどれだけ消えられるか見せてもらおうかな」
「えぇ? が、頑張ります……」
自信なさげなアリエルを豪快に笑い飛ばして、イザベラは金の髪をポンポン撫でた。
「戻っ――いっ!」
久々の肉体を存分に伸ばしかけ、ルカは体中に走る痛みに顔を顰めた。
《それくらい我慢しろ》
約一週間ぶりの本の中で、イザベラはおかしそうに叱咤する。
《戻っていいとは言ったけど、お前まだ怪我人だから。あと一週間はアリエルの鍛錬に付き合って体を戻せ》
「鍛錬……って、他に何か必要か?」
今後の処方を言い渡したイザベラに、ルカは眉を寄せて窓の外を示した。
そこではアリエルが新しい術の練習をしている。
「これ以上あいつに教えることはないような……今んとこ何ができんの?」
《えーっと、『隠形』は完璧。『硬化』『倍化』『加速』『集中』は及第点ってとこだな。で、今は『透過』を練習中》
一日半もあれば、アリエルは大抵の術式をある程度の高水準まで習熟していた。
戦場で心配されたくないという少女の思いを優先したのか、戦闘に使用される補助術の代表格ばかりが並んでいる。
現在アリエルが練習している『透過』は、対象と定めた物体的な干渉が自分の身体に働かないようにするための術式である。
力加減を間違うと地面に埋まってしまったり、透過している最中に効力が弱まって体内に異物が混入したりと、この術には集中力が要求される。
そのせいもあってか、会得には多少の時間がかかっているようだった。
「ふーん……もう少しできそうなもんだけどな」
《お前と一緒にすんじゃねーよ。やったらできる、ってわけじゃないんだから》
「そうかねぇ」
そうは言いつつも、ルカはアリエルが予想以上の才能を持ち合わせていることに本の中で舌を巻いていた。
だからこそ、これ以上何を鍛錬するのか見当がつかないのである。
「で、俺は結局のとこ何をすればいいワケ?」
戻ってきた話の主題にすぐには答えず、イザベラはルカに質問を返した。
《お前は、これ以上あの子に術式が必要だと思うか?》
「……いや、あの歳にしては十分すぎると思う」
僅かな間を置いて返した答えが満足できるものだったようで、イザベラはさらに質問を続ける。
《じゃあ、足りないものはあると思うか?》
「え、ああーっと……特には」
《おいおい、足りないだろ。アリエルには圧倒的に経験が足りない》
「……何の?」
《実戦だよ》
「…………ほう」
《あのなぁ……》
今一つ理解しきれていないルカに、イザベラは大きく息を吐いた。
《状況判断が重要なのはわかるだろ》
「まぁ、うん」
《それを養うには、実際に戦うしかないわけ。だから、お前はアリエルと森で鬼ごっこをしてもらいます》
「うん……っはぁ?」
特に考えもなく頷いてから、イザベラの発言に何かおかしな点があったことに気付く。
「ちょっと待て、鬼ごっこって何だよ」
《お前、鬼ごっこも知らないのか……?》
予想の斜め上を行く純粋な驚きが返ってきて、ルカは眉間に手をやった。
「……そういうわけじゃなくて」
《冗談だ》
頭痛に見舞われているルカには構わず、イザベラは鬼ごっこを説明し始める。
《お前は私とペアだ。私たちは魔術を駆使してアリエルを捕まえる。手で触れるだけでいいからな。制限時間は三時間で、範囲は結界の中だ。制限時間の間に捕まえられればお前の勝ち。いいか?》
「俺の訓練も兼ねてるんだ。嫌とは言わん」
机の上から本を抱え上げ、ルカは小屋を出た。
「あ、ルカさん。身体は……もういいんですか?」
「うーん……良くはない」
左半身に意識を向け、言葉どおり微妙な表情を作る。
「あ、あの、すみませんでした」
「なっ、何でお前が謝るんだよ」
突然頭を下げた少女に、ルカはひたすらに慌てた。
「これは俺が護衛に慣れてなかったからであって、お前は関係ない」
「でっ、でも……」
《本人が言ってるんだから、そういうことにしとけよ》
アリエルはルカとイザベラの間で視線を彷徨わせていたが、やがて往生したのかゆっくりと首を縦に振る。
《それで、この前言った訓練だけど、ルカも協力してくれるってさ》
「本当ですか!?」
飛びつかんばかりの勢いで手を握られ、気圧されるように身を引いた。
「あ、ああ」
「じゃあ、逃げますね!」
ルカが勢いに呑まれているうちに、少女は豊かな髪を手早く一房にまとめ、後頭部から大きな尻尾のように垂らす。
声高らかに『加速』の詠唱を終えると踵を返し、髪を揺らしながら大人の疾走にも負けない速さで森の中に消えていった。
「えー、つまり?」
自分だけが思い切り置き去りにされている疎外感をやり込め、脇に抱えた本に状況の解説を求める。
《既に訓練は、始まっている》
「……そうですか」
《一分後に始めるからな》
風が木々の枝葉を揺らす音を聞きつつ、棒立ちで一分が経つのを待つ。
「一分って長いな……何してもいいんだっけ?」
《怪我さしちゃダメよ……あ、言ってる間に。三、二、一、始め》
イザベラの開始の合図と共に、ルカは怒涛の勢いで術式を羅列した。
「『透視』『加速』『倍化』『集中』を発動。『索敵』は待機状態にしておいてくれ。終わったら結界のど真ん中に『転移』。よろしく」
指示を飛ばす間も、造形術で投網を作り出す手は休まない。
《本気だ……》
大人気ねぇーと揶揄していても、イザベラが魔方陣に魔力を込める作業に滞りはない。
「駆使するんだろ? 本気出さなきゃ訓練にならねぇよ」
ルカが網を作り終えるとほぼ同時に、全ての術式の起動が終了した。
《準備できたぞ》
「よし、飛んでくれ」
《『転移』》
例に漏れず影から湧き出した転移獣の口に飲まれると、世界が暗転する。
小屋の前から景色は一転、木々に囲まれた空き地が目の前に広がっていた。
「『索敵』!」
《はいよ》
呼び声に答えてイザベラが術式を発動する。
《おっ、『策敵』は効果アリだな。三時方向に約四十メートル、そう離れちゃいない》
「把握した。さて、捕まえるぞー」
ルカは右手方向に向き直ると、全力で地面を蹴った。
『倍化』によって地面から得られる反力は単純倍。『加速』により、ルカの移動速度は魔力総量に従って比例増加している。普通に歩くだけでも、一般人の駆け足並みの速度が出せるだろう。
通常の感覚のままそんな速度で森の中を疾駆していては、まず間違いなく木に激突する。
『集中』を使って五感を鋭敏化、運動情報の伝達速度を僅かに向上させることで、その危険性を僅かでも排除しているのである、が。
「ってぇ!」
《……四回目》
元々粗雑な性格と探し人がいることが災いし、何箇所か身体に打ち身を作っていた。
「いいだろ、追いついてるし」
ルカは『索敵』の陣の上に浮かんだ円形図を見つつ森の中を駆ける。
「お、みーっけた」
彼が見つめる先には何もないが、『透視』の効果で視覚術式を軽減しているその視界には少女の姿がぼやけて映っているのだろう。
地を蹴って木の枝へ飛び乗り、枝から枝へと跳躍を繰り返して接近する。
そして、最適と思われる地点で投網を放り投げた。慣性につられて流れた網は、ふわりとその身を広げて地面に落ちる。
「きゃあっ!」
網が不自然な形に盛り上がり、黄色い悲鳴が上がった。
「ほいっと」
地面に下りたルカはアリエルが逃亡を図る前に、標的の少女にポンと軽く触れる。
《はーい、訓練終了。経過時間、三分二十七秒》
イザベラが終了を告げると、網の中でアリエルが姿を現した。
「三時間も逃げ切れる気がしません〜」
《アリエルは、あそこで『集中』か『加速』を重ねることもできたよな》
弱音を吐く少女に、イザベラは早速助言を始める。
(重複か? ……無茶なこと教えやがる)
補助術を複数回使用すると、魔力の消費量が倍以上になる代わりとして、魔術行使時からの強化が可能となる。『倍化』を三回重複させれば、発生する反力は元の力の約八倍、ということだ。
ただし、重複にはそれを制御しきるだけの技量と、大幅な魔力の減衰に耐えられる総量が必要になる。ほとんど緊急措置のようなものなので戦闘時での使用頻度はあまり高くないが、その効果は折り紙付だ。
イザベラは、少女にはその資質があると見込んだらしい。
《実戦と練習は違うから、できることは全部使わないと。生き延びるために、常に冷静でなきゃな》
「わかりました」
講義の矛先は、ルカにも向けられる。
《お前はもっと前見て走れ。時間の無駄》
「訓練初日なんだ、もっと大目に見ろ!」
ルカが文句をつけられている間も、アリエルは反省と対策に頭を巡らせていた。
「あっちゃー、また外したか」
打ち捨てられたように地面でひしゃげている投網を回収し、ルカは何度目ともつかない大きなため息をついた。
《『透過』を使う場面がやっとわかったって感じか。このままいけば、アリエルに初白星じゃねーの?》
どうしたものかと思案顔のルカに対して、イザベラはおかしそうに冷やかす。
この日まで六回、ルカは全ての訓練で白星を上げてきたが、訓練のたびにアリエルの術発動速度は目に見えて速くなっていた。
時間の無駄が減ることで余裕のできた少女は的確に重複や地形を応用できるようになり、訓練終了までの時間はだんだんと延びている。
『透過』のコツを掴み始めた前回など、二時間以上もルカの投網を潜り抜け、あわや逃げ切られるかと肌寒い思いをさせてくれた。実質、手が触れたのも半ば運である。
訓練の成果は、実に即物的な形で二人の目の前に表れているといっていい。
「『透過』も燃費はよくないんだけど……さすがにその辺はお前の入れ知恵が効いてるな」
《ふっ、そうだろうそうだろう》
謙遜という言葉とは無縁の反応が返ってきた。
ここぞというときにだけ使った方がいい。イザベラのその言葉に従って、アリエルは避けきれないと判断したときの一瞬だけ『透過』を使う。それ以外は消費量の少ない『集中』などを重複し、ほとんど先読み的に掌をかわされてしまう。
要するに、アリエルはすこぶる利口なのであった。
「訓練なんだし、最後くらい剣使ってもいいか」
ルカはなにやら物々しいことを言いつつ、黒い投網に魔力と合わせて頭の中の設計図を送り込んでいく。
そうして出来上がったのは、刃渡り六十センチほどで肉厚の曲刀だった。
《お、おいおい……何する気だよ》
危険なことはしない、と頭でわかっているイザベラも、ルカが片手に握った剣の禍々しい形状には少し不安感を覚える。
「大丈夫だ。何にも切れないし、牽制するくらいだって」
大上段に構えた曲刀で細身の若木を斬り付けると、言葉どおり先を落とすはずの木は青々と茂ったままだった。
次いでゆっくりと木の幹に剣先を押し当てると、まるでパン生地のように刀身が潰れていく。潰れた刀身は、剣を木から離していくと自然に元に戻った。
想像力が影という材質に与える性質は、天然に存在しないものであっても特に問題はない。性質を事細かに想像する必要があるので、難度は高いがそれだけだ。
ルカの手の中にある剣は、「ある程度の剛性ととんでもない柔軟性を兼ね備えた素材」で作られているのである。
《どんな想像したらそんな剣ができるんだよ……》
「どうって……口で言うのは無理だ」
驚きを通り越して呆れているイザベラは回答が何となくわかっていたらしく、特に追求はしなかった。
《それはそうと、もう三時間になるがいいのか?》
「おっと、そうだった。『索敵』の地図出せる?」
まもなく呼び出された円形図を覗き込んで、小さな丸がゆっくりと動いているのを確認する。
「十時に五十か……そんなに離れてないな」
円形図を確認したまま、ルカは迷いなく左方向に駆け出した。
気付かれない程度に速度を上げ、少しずつ距離を詰めていく。
「残り時間は?」
《あと一分くらいだ》
念のためにと聞いてみると、予想外に時間は残されていなかった。
どうあっても、これが最後になるのは間違いない。
「一分か……ちょっと厳しいな」
移動する点との間は着実に狭くなってきている。
やがてルカの視界の中で、ぼやけていてもなお輝く金の結い髪が揺らめいた。
姿を確認すると大きく腰を落とし、ほとんど這うような姿勢で急接近をかける。
「っ!?」
ルカの姿に気付いたらしいアリエルは、すぐさま動きを止めて大きく後退した。『倍化』を重複させたようで、軽い身体は瞬間的に四メートルほど移動している。
残り少ない時間を無駄にはできない。ルカは手の届かない間合いを取られたと悟るや、すぐに体勢を立て直して地面を蹴った。
牽制として右手の剣をわざと見えるように構え、正面からアリエルに突撃する。
日の光で鈍く光る刀身を見て少女は一瞬だけ固い表情を作るが、訓練であることを思い出したのかすぐさま『集中』を詠唱し、ルカの動きに目を凝らした。
ルカは牽制に構えた曲刀を、少女がしっかりと目視できるようにピクリと震わせる。
アリエルは狙い違わずその動きを捉え、反射的に逆方向に向かって足を動かした。
(よしっ!)
囮の剣とほとんど同時に伸ばし始められていた左腕が、少女の肩を捉えたとルカが確信を得た瞬間。
音もなくアリエルの姿が消えた。
「なっ……!?」
驚愕を露にしたルカの左手が空を掻くと同時に、黒本から警笛の音が鳴り響く。
《三時間経過、訓練終了!》
高らかに宣言したイザベラに、ルカは抗議の声を上げた。
「『転移』が使えるなんて聞いてないぞ!」
抗議に動じる様子もなく、黒本は仮の腕で地面を指差す。
《下》
「は?」
つられて視線を落とすと、鼻頭を赤くしたアリエルが今にも立ち上がろうとしているところだった。
《そろそろ体が重いんじゃないか、アリエル?》
ルカが手を貸して立たせてやると、少女は目頭を擦りながら首だけを前に倒す。
三時間も緊張状態を保ったまま、継続的に運動を続けていたのだ。十歳前後の子供にしては、恐るべき体力である。
比較的消費の抑えられた補助術のみを使っていたとはいっても、消費した魔力も馬鹿にはならないだろう。
影の形態維持にごく微量の魔力を使っていた程度のルカにも、僅かな疲労感がある。アリエルとて同じか、それ以上に違いない。
「じゃあ、さっきのは……」
「あの、こけました」
アリエルは盛り上がった木の根を指差した。そこで躓いた、ということだろう。
「……はぁ、見事に逃げられたな」
ため息混じりにぼやいて、ルカは後頭部を掻いた。
「た、たまたまです」
《いーじゃん、運も実力のうちだし。最後の方はいい動きしてたよ》
イザベラの評価を聞いて、少女は嬉しそうに笑う。
「戻ろうぜ、腹減った」
《お前……まだ十一時すぎだぞ》
太陽の位置を確認し、イザベラは八時くらいに朝食をとった相棒に時間を教えてやった。
「だってよー、アリエルもお腹空いたよな?」
ルカは少女の方を振り返って同意を求める。
「えっ、えっと……少しは」
アリエルは考えるように腹部に手を当て、どちらかといえば意見がルカ寄りであることを表明した。
「決定。今日は昼飯食って、寝て、晩飯食って、寝る」
《マジかよ……》
穀潰しにも程がある計画を立て、二人と一冊は小屋に戻っていった。
予定通りアリエルとイザベラが寝息を立て始めたのは、少しずつ太陽が西に傾き始めた頃だった。
ルカは二人を起こさないようにそっと小屋を出ると、夕闇の近い森の中を進む。
背の低い広葉樹の中を少し歩くと、急に視界が開けた。切り取られたように木がなく、そこだけが円状の空き地になっていた。
多くの意味で思い出深いこの場所は、恩師が最期を迎えた場所でもある。
夢の中で血に塗れていた地面は、既にその面影を感じさせることはなかった。もう十年も昔のことなので、それも当然のことなのだが。
荒れていた地表には野草が群生し、空き地の中心には石造りの十字架が立っている。
ルカはおもむろに十字架に近づくと、膝を折って頭を垂れた。
「じぃさま、ただいま戻りました」
恩師たる老人の墓標に向かって、粛々と黙祷を捧げ続ける。
静まった空気を揺らすのは、風に靡いた草木が立てる葉擦れの音くらいのものだった。
「……じぃさまは、怒っているでしょうね」
緩慢に立ち上がって、深々と頭を下げる。
「申し訳ありませんでした。でも俺は、どうしても、あなたの言うことを聞けなかった。本当のじぃさまを知っているのは……俺しかいない。俺はあなたの無念を放って置けるほど、まだ大人じゃないんです」
上体を起こし、ルカは十字架を見据えた。
「……いずれ、また参ります」
慇懃にそう言うと、小屋に戻るべく踵を返す。
どれだけの間瞑想していたのか空の色も変わり始め、すっかり黄昏ていた。
のろのろと来た道を辿り、小屋の扉を開く。
「……また墓参りか?」
「そうだよ、文句あっか」
本の傍らで少女が寝息を立てているのを見て、ルカは押えた声で言った。
「文句はねぇけどよ、毎度よくやるなと思って」
「……俺にしかできないから、俺がするんだ。誰かが代わりに墓を守ってくれるわけじゃないだろ」
椅子に腰を下ろし、イザベラに少し棘のある目を向ける。
「そう睨むなって」
彼女は若干めんどくさそうに息を吐いた。
「まぁ、手配されてまで国にいるくらいだし、半端にやってんじゃないのは知ってるさ」
「そ、そうか」
まさかそこまで思われているとも考えていなかったが、半端な気持ちでないのは確かなので一応頷いておく。
「飯の時間になったら言ってくれ」
仮眠を取るべく、ルカは揺り椅子の中で目を閉じた。
「明日、ここを出るぞ」
夕飯の席で、ルカは一足先に二週間連続のパンとハムのサラダを平らげて言った。
「……明日、ですか?」
突然のことに、アリエルはフォークに突き刺した野菜のことも忘れて呆気にとられる。
一方のイザベラは動じていないようで、パンを千切る手は止まらなかった。
「明日だ。俺もだいぶ調子が戻ってきてるし、お前も魔術師らしくなってきたしな」
認められたことを認識するのにずいぶんと時間がかかったようだが、アリエルは顔全体に喜色を表した。
「で、何より……食糧がない。金もあまりない」
そこまで言い切ると、ルカは「そういうわけだ」とグラスの中の水を飲み干す。
その二つさえ揃っていればここで過ごすことも吝かではないのだが、ないとなると生活を成り立たせるのがそもそも困難だ。
金銭面としては、遂行中の依頼をこなすくらいしか当てがない。ダメで元々、アリエルが拾っていた石を渡しに行く予定である。
上手くいかなかったときは近隣の街へ出向いてまた仕事を探すしかない。
食糧面の問題は、ひとまず金銭面の問題が片付いてからでないと手のつけようがないのだった。
何にせよ、ここを出なくては活路はない。
「急で悪いな」
「い、いえ……でも、ちょっと残念です」
存在を思い出した野菜を口に運びながら、アリエルは少し目を伏せた。
「残念?」
「終わるわけじゃないのはわかっているんですが、その……楽しかったので」
「……?」
ルカには楽しめるようなことがあった覚えがないので、自然と首を捻ってしまう。
「なんだか、少しだけ……家族、みたいだなって」
アリエルは躊躇いがちではあったが、しかしはっきりと家族という言葉を口にした。
「…………」
ルカが黙していると、少女の顔は湯気を立てそうなほど朱に染まり始め、耳の先まで真っ赤になる。
それなりの量が残っていた皿の上を吸い込むように空にして、アリエルは気恥ずかしそうに立ち上がった。
「あの、そんな気がしたっていうだけなので、あの、気にしないでください!」
どもりどもりそれだけを言い終えると、『加速』でも使っているのかという素早さで寝袋に潜り込んでしまう。
《もう寝るのか?》
「あ、明日に備えます。おやすみなさい!」
《おやすみー》
ようやく食事を終えたイザベラは、『浄化』の陣を開いてアリエルを対象に起動させた。
《照れてるぞ、かぁいいー》
「……襲うなよ」
《襲わねーよ!》
釘を刺すと、黒本は心外だと言わんばかりに表紙と机で音を立てる。
「明日はなるべく早くに出たいし、俺たちも寝るか」
ルカは開いていた魔方陣に手を加えて机の上に出たままの食器を『浄化』すると、元通り倉庫の中にしまいなおした。
《だいたい二週間か……戦闘勘が鈍ってなきゃいいけどな》
一時的に休止になっていた罪伐隊からの逃走や賞金首の狩りなど、戦闘を余儀なくされる場合はままある。
アリエルにそういった血なまぐさい場面を見せるのはなるべく避けたいので、ルカ一人で気兼ねなく行動できる状況が作れたことは、この二週間で最大の収穫だったといえよう。
「まぁ、それは追々取り戻すってことで」
ルカは軽く答えて寝袋に入った。
《お気楽なこった》
イザベラもため息混じりに本を閉じ、部屋を照らしていたランプの明かりを消す。
「……家族、か」
誰にも聞こえないような小声で、ルカはそう呟いた。




