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家族の事情  作者: 雪消陽
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Ⅲ 出遭い

 黒蛇が四散させた巨躯を再構成して腹の中身を吐き出したのは、集落とは名ばかりの瓦礫の集積場だった。

 その瓦礫というのも太古の建造物であったりするのだが、そういったことに疎いルカにとってそれらはただの廃材である。

 周囲に所狭しと生えているのはどれも見上げるほどの巨木で、それが視界に映る全てだった。少し目を凝らしたくらいでは森の向こう側など見えそうもない。

 再び瓦礫の方に目を戻すと、そちらにも周りほど大きくないにしろ、ちらほらと樹が生えている。この場所が樹海の奥深くに位置しているのが理解できると同時に、つい最近発見されたということにも合点がいった。

 国の調査機関がいかに優秀であれ、こんな辺境にある遺跡を発見するのはさすがに苦労したことだろう。

 仕事の種を作ってくれた彼らに心ばかりの感謝を捧げつつ、集落に手だけを入れてみた。

「警報はなし、か」

 わざわざ山奥まで出張ってくる輩はいないとの判断か、部外者排除用の仕掛けは施されていないようだった。

 甘い甘いと薄ら笑いで敷地内に足を踏み入れる。

「離れると危ないぞ」

 未だに敷地の外で樹の先端を見ようと真上を向いているアリエルに提言した。

 少女は樹から目を離すと、小走りでルカに近づいてくる。

「?」

 ルカが空気の淀みを感じたのは、ちょうどアリエルが敷地との区分けと思しき門の名残を通過したときだった。

「今のはなんだ?」

《……結界が破れたときに似てるが……前に言ったことの延長かもな》

 イザベラも気がついていたようで、声に好奇心を忍ばせている。

 魔術の類があまり効果をなさない。以前アリエルについて、彼女はそう推測していた。

「じゃあなんだ、警報なしで結界だけ張ってたってのか?」

《だろうな。感知されないようにステルス性なんかも付加されてたかも》

「奴らもとうとうやることが陰湿になって来たな……」

 ルカは苛立ちと呆れを込めたため息を吐く。

《よくやったぞ、アリエル》

 イザベラがそう言うと、少女は何のことやら、という風に首を傾げた。当の本人に自覚はないらしい。

 結界を張った相手にはここに誰が侵入してきたことがわかっているだろう。できるだけ早いうちに仕事を終えてしまわないと、罪伐隊や調査隊と鉢合わせすることになる。

「まだ手付かず、って感じだ」

 ルカがおおよそ彼の身長の五倍はある石や木材の山を見やる。

《お国の調査隊とかと鉢合わせしないといいな》

 イザベラはあたりの様子を把握しやすいように、と全員に二つの術式を施した。

 一つは視覚強化の『透視』、もう一つは聴覚強化の『傾聴』である。

「……街でも思ったんだけどな、それだって術式だろ?」

《当然だ》

「なんでアリエルにも効果あるわけ?」

 魔術の類が効果的でないのなら、それもまた然りであろう、ということだ。

 だが現に、魔方陣は術式が正常に機能していることを表している。

《……知らん》

 イザベラは素っ気なくそれだけ答えた。

「知らんって……」

《類推の範囲でしかないが、アリエルにとって有益だからじゃないか?》

「つまり、選ってる?」

《さて、どうだか》

 彼女が本でなければ、曖昧な表情で肩を竦めて見せているだろう。

《一回ド派手な戦闘にでも巻き込まれれば、いろいろと分かるかもしれないけど?》

「いや、遠慮しとく」

 ド派手とは無縁だったが、戦闘なら昨日巻き込まれたばかりだ。しばらくはあの白い法衣を見たくもない。

 遠慮というよりは拒絶の滲んだルカの声音に、イザベラは咽喉の奥で無遠慮に笑った。

「さて、と……墓でも探すか」

 心機一転、ルカは仕事の顔で辺りを見渡す。

 通常財宝や遺産などの歴史的価値のあるものは、地下の墓跡や見ただけでそれとわかる神殿で発見されることが多い。在り処を見つけやすい分、罠や仕掛けは目白押しである。

 集落に落ちている得体の知れないものがそうだったりすることもあるようだが、その辺りは運次第だ。

 ルカに比べれば古代文明に興味ありげなアリエルが、次から次へとイザベラの倉庫に放り込んでいる石のようなものが遺産だったりするのかもしれない。

 見回した限りでは荘厳な雰囲気を醸し出す建造物は見受けられないので、地下に墓があるか、とうの昔に瓦解してしまったようだ。

「ちょっと静かにしてろよ」

 ルカは影の中心に手を突きこむと、目を閉じて指先に意識を集中させ始めた。

 指の先端から地中の闇へと送り込まれた分割意識たちは、深くから微かに伝わってくる魔力へ向かい、発信源までの道筋を示す。

 方角と深度を記憶すると、影の中から両手を引き抜いた。

「見つけた。ここから十一時の方向へ二キロ、深さ五十メートルくらい。その付近、視認できる範囲に入り口があるはずだ」

《……深いな》

 座標の深度を聞くと、イザベラの声に硬さが混じる。

「まぁ、それだけいいものがあるのを期待しようや」

 過度な期待を避けた控えめな声で、ルカは希望論に縋った。


 道中で特別足止めを食らうようなこともなく、半刻の散歩は終わった。

 それでも何かあるに違いない。そう神経を張り詰めていたのだが、呆れたことに、目標地点から見える位置、予想通りの範囲に墓の入り口が堂々と佇まいを構えている。

 加えて、それの周りにはあるべきはずの罠が何もなかった。

 残念ながら、ルカはこの状況を手放しで幸運と喜べるほどに心穏やかではない。

 あの夢を見た後はいつもそうだ。何もないことに疑心暗鬼になり、命の危機に晒された瞬間に安堵する。

 これを切り抜ければ、いつも通りなのだと。

「うーん……」

《どうした?》

「いや、別に」

 そうは言ったものの、やはり不安なものは不安だった。

 例えば、いや、間違いなくこの先に何らかの障害があるとして、ここは今まで通りだ。

 しかし、今守るべきはこの身一つではない。不運と弱気という絶対的な枷を嵌められた自分が、隣の小さな少女の命を預かることになる。

 たった一度だけ受けた護衛の依頼は見事に失敗した。

 生まれてこの方、集団行動などとはついぞ縁がない。

「はぁ……」

 諸々を鑑みて、弱気になるなというのは無理な話だった。

《いい加減、諦めたらどうだ》

 斜め上から聞こえる唸り声やため息がとうとう我慢の限界を超えたのか、相棒はルカに厳しい声を向ける。

「つってもさ……」

《起きたことはそのときに対処すればいい。そりゃまぁ、ある程度の想定くらいは必要だろう》

 ルカに歯向かわせる間すら与えず、イザベラは先を続けた。

《でもな、不安ともしもはいらねぇ。それとも何か、お前って男は、女の子一人満足に守れませんってか?》

 面倒を見るといったあの言葉に、嘘がないようにしなくてはならない。

 それがいったいどれくらいの期間になるかはわからないが、保護者を気取るなら子供一人守れて然るべきなのだろう。

「……そう、だな」

 檄に対する納得に返答はなかった。

「アリエル」

 名前を呼ばれると、少女は煉瓦造りの入り口から目を離してルカの元にやってくる。

 子供特有の好奇心は留まることを知らないらしい。

「いいか、離れるんじゃないぞ」

 アリエルは大きく頷いて、おずおずとジャケットの端を握った。

 小さな皺のついた上着を眺め、ルカは煉瓦の塊に向き直る。三列縦隊が余裕を持って通れそうな入り口が正方形に開いている。

 内部に光源がないのか、外から入る日の光だけが下に続く階段を照らしていた。

 十と少しを数えたところで各段のシルエットが曖昧になり始め、奥に向かうごとに黒の成分が濃密になっている。

「明かりが必要だな」

《……はい、どうぞ》

 ルカの声に応えて黒本が頁を開いた。

 倉庫の中から目を凝らしてランプを探し出すと、米粒ほどの大きさのそれを外界に引っ張り出した。

 ランプの底に貼り付けてあったマッチで火をつける。

 全ての準備が整ったことを確認し、深呼吸で気分を落ち着けると、ルカは入り口の内部へと一歩を踏み出した。

 集落の門で感じたような揺らぎは感じない。

 周辺に罠が無かったことも考えると、既に探査が終わっていても全く不思議ではないのだった。

 そうだとすれば、先方が何かを見落としてくれていることを祈る他ない。実際に潜ってみるまで、そこに何があるのかは不明だ。

 二十の段、高低差にしてだいたい五メートルを降りると、そこは石でできた回廊だった。ランプで照らし出せる範囲には壁と天井以外何もない。

 おそらく大方の仕掛けは解除されているだろうと期待して、頼りない光が照らす地下道を進む。

 途中で左に二回折れ、三ヶ所で作動済みの仕掛けを見つけた。

 内部はそれなりに広いようだが、迷路のような造りではなく一本道である。

 残念ながら先行者がいたらしく、侵入者妨害用の罠は動作した後か動かないように解除されているものがほとんどだった。

 その仕事の丁寧さに感嘆しつつ、下がってゆく遺産や財宝の可能性には泣かされるばかりだ。

 隠し部屋があったとしても、発見済みである気がしてならない。

「潜る意味あるのか……?」

《ダメで元々だ。運が良ければ見つかるだろうが……まぁ、護衛の訓練だと思え》

 徒労感全開のルカに、イザベラは投げやりな意見を述べた。

(護衛、ね)

 ここで護衛するべきアリエルはといえば、入った直後は上着の裾を握るだけだったのだが、暗所はやはり怖いらしい。今ではしがみつくようにルカの左腕を束縛していた。

 なかなかに歩きづらい。しかし護衛と言われると邪険にするのもなぜか憚られ、少女の歩幅に合わせて牛歩を刻んでいる。

「おっと」

 唐突に隣を歩くアリエルの動きが止まり、ルカはたたらを踏んだ。

「どうかしたか?」

「……今、光りました」

 アリエルはそう言って、ルカの足が次に踏む辺りを指差す。目を凝らしてみると、細い線が壁同士の間に張られていた。

 身長が低いおかげで気付くことができたのだろう。背の低さと『透視』による補助があったとしても、相当目が良くなくてはこの暗がりで細い糸を見つけることなど不可能に近いだろうが。

《よく見つけたな》

 感心するイザベラに、少女は照れたように笑った。

 罠の近くにいることは望ましくないので、三人は糸から十分な距離をとる。

《いいか?》

「ああ、やってくれ」

 ルカが確認に頷くと、イザベラは伸ばした影で糸を断ち切った。

 小さな音が聞こえると同時に影は空に消失する。天井から降ってきた白銀の檻が線の付近を閉じ込めるよりも、手が消える方が僅かに早かった。

《っぶねー》

 安堵の息を吐く彼らの前で、空の檻は奥へと進み始める。少しばかり動くと、檻は何も道連れにすることなく姿を消した。遅れて、遠くで何かが破砕するような音が響く。

 光系統の造形術と移動系の魔術を組み合わせたものだろう。檻で閉じ込め、侵入者を穴へと屠る。

「なんて非情な……」

《嫌な性格してたんだろうな、この墓の主は》

 解除されていない罠を発見して財宝やら遺産やらの可能性は上昇したが、それ以上に危険性の方が高まってしまった。

 他にも魔術式の罠があるのは間違いない。うんざりしているせいか重い足取りで少し歩くと、檻を飲み込んだ穴が目の前で大口を広げていた。

 覗き込んでみるが、案の定ランプの明かり程度で見通せるほど浅くはない。落ちれば少なくとも、骨は確実に折れる。

 穴に落ちる気はさらさらないので、ルカは壁面の影から両手で抱えるほどの塊を抜き出した。それを壁から壁まで届くような四角柱に造形し、穴の淵に置く。

 黒塊に手を乗せ、ほんの僅かに見える向こう側に向かって影を伸ばしていった。

 やがて穴が影の板に覆われると、強度を確かめるように何度か踏みつける。

 硬質な音がするだけで、急ごしらえの床が抜けることはなさそうだった。

「ちょっと待ってろ」

 念のためアリエルに本を渡し、五メートルほどの穴の上を駆け抜ける。

 後ろを見ると、さっきまでと何も変わらない光景があるだけだった。火の明かりを返す板には凹み一つついていないようである。

「いいぞー」

 手を振って合図すると、何も走る必要はないのだが、アリエルはルカと同じようにこちらに駆けてきた。

 床が抜けるなら今の瞬間に違いない、と身構えていたもののそれも杞憂に終わり、アリエルは無事にルカの左腕を抱きなおす。

 片腕の自由がないまま先を見ると、さらに地下へ進む階段の姿が見えた。

 入り口の階段と同じ規模なら、単純計算で十階層あるうち、まずは一層目を突破したことになる。

 あと八回はこんなことをしなければならないかと思うと、ルカは落とした肩を上げる気にもならなかった。


 巧みな技術で解除された物理的な罠に紛れて、様々な方策を用いてルカたちを亡き者にしようとする魔術を使った罠の数は少なくなかった。

 墓の主は、ここに眠る自らの財にずいぶん耽溺していたらしい。

 解除されていない罠は、一つの階層に全く存在しないこともあれば、同じ階層に複数個設置されていることもあった。

 常に気を張らせるための手段としては、十分すぎるほどに効果を上げている。

「…………」

《…………》

 周囲を警戒し続けているおかげで、一人と一冊は六層あたりから口を利かなくなった。

「……すぅ……すぅ……」

 極度の緊張で体力を使ったのか、アリエルはルカの背中で大人しく寝息を立てている。

 少女は床を這うように張られた金属線を数ヶ所見つけ出し、一行の危機脱出の手助けをしたご褒美としてルカの背に負われていた。

 第九層には上層から降りてくる階段の目の前にあったつや消しの金属線以外に、罠らしい罠は見られない。

 ここまで手の込んだものになると、先行者が仕掛けていった可能性も考えられた。

 この場まで歩を進めてきた者の栄誉でも湛えるつもりか、今まで暗かった廊下は松明の明かりで照らし出されている。

 罠がなく、見通しが良いのならそれに越したことはないと無理くりに納得し、ルカは最後の階層に思いを馳せた。

 ここまでの道のりをあれだけ厳重に警戒しておいて、肝心の最後に何の仕掛けもされていないとは到底思えない。

 魔術の使用が制限されていたり、外部と重力や大気圧といった環境条件が違うなど、何らかの方法でもって財宝は守られているだろう。

 財宝守護のために破壊行動のみを命ぜられたゴーレムがいた、などという話があるくらいなので、何があっても驚いている暇はなさそうだ。

 思考の間にも足を止めることはなかったが、イザベラからの喚起はない。

 解除されているものもされていないものも含めて、物理トラップ自体がないらしい。

(まぁ確かに、ここに来られる人間は少ないだろうな)

 ルカ自身、まさかそんなところに、と思う解除済みトラップがいくつかあった。罠を仕掛けたかもしれない先行者がいなければ、ここまで辿り付いていなかっただろう。

 背に負った少女も、この踏破には一役買っている。

《……い。……ぉい、おい。ルカ、前》

「……ぇ、ふがっ!?」

 杭に槌がぶつかるような鈍い音を立てて、前を向いたルカの額と鼻頭が硬い壁面にぶつかった。

 後ろ向きに倒れこみそうになるのを何とか踏ん張って持ちこたえ、少し後退した地点から下手人たる煉瓦壁を睨みつける。

 大声で罵詈雑言を浴びせ掛けつつ蹴りつけたいところを思いとどまり、ルカは先に進むべく左右に首を振った。しかし、目に留まるのは眼前の壁と同じ材質の壁だけ。つまり、ここは袋小路だ。

「……もしかして、迷ったか?」

 全く罠がなかったのは、迷路状になったこの階層にそんなものは必要ないからだったのか? と悪寒を覚えるが、

《いんや、今まで一本道だ。曲がり角すらなかった》

 イザベラはルカの迷推理をあっさりと否定する。

 よく考えれば、ぼんやりしながらひたすら真っ直ぐ歩いてきたのだから迷い様がない。

「じゃあこれは何なんだよ」

《ふむ……行き止まり、だな。もしかすると、どん詰まりかもしれない》

 もしかしても何も、それはどちらも同じ意味である。

 こんなときにも下らないことを言える相棒の心理状態に多少の敬意を払う反面、大半は呆れていた。

「どうすんだ、進めねぇぞ」

 槌でも作って壁をぶち抜こうかとも考えたが、ここは地下四五メートル付近である。本当に行き止まりなら、壁を破壊した時点で均衡が崩れ、通路が大破して圧死する。なんて笑えない事態になりかねない。

 ぶち抜くにしても、それは隠された道がある場所でなくてはならなかった。そんなものがあれば、の話だが。

《そうだな、杖かなんかで壁を小突いてみろ》

 イザベラはそう言って『増幅』の陣を開く。

 何となく彼女が何をしようとしているのかを理解したルカは、言われた通りに影から杖を作り出した。できるだけ握りやすく、石突の硬いものを想像する。

 黒本が開いた陣に魔力を流し、右手に握った杖の先で前方の壁を二度ほど小突いた。

 壁と石突が発した音は起動した魔方陣に拾われ、数倍の音波となって通路に響く。

 その音を余韻までしっかりと聞き届けてから、空気の揺れ方を忘れてしまわない内に右の壁を叩いた。

「変わらねぇな」

《おし、次だ》

 次いで左の壁を叩く。

 しかし、響く音は前者二つと何も変わりない。

《やっぱ、そう上手くはいかねぇか》

 魔力が切れるまで自律起動している魔方陣のおかげで、イザベラの呟きも大きく響く。音の違いから空洞を見分ける、という目論見は不発のようだった。

「ここまで来て、これはなぁ……」

 精根尽きた、とルカが吐いたため息と床に突き立てた杖の音まで、『増幅』の陣はしっかと拾って拡大再生する。

「うるせーな」

《……ちょっと待て》

 残った魔力を吸い出してやろうとルカが手を挙げると、イザベラはそれを制止した。

「なんだよ?」

《もう一回だ》

 発言の意味を飲み込みきれず、ルカの頭上に大きな疑問符が浮かぶ。

「何を?」

《いいから、床を小突け》

 先刻とは違ってイザベラが何を言っているのかは全くわからなかったが、ともかく杖にもたれかかっていた体を起こす。

 突き立ったままの杖を持ち上げ、重力に任せて床に叩きつけた。

 石と金属がぶつかる高めの音を、律儀に聞きつけた魔方陣が拡散する。

「それで?」

 回廊に響いていた音の残滓が消えると、ルカはイザベラの意図を問うた。

《……下、だな》

 気概をなくしたルカは石に響く音を聞こうともしなかったが、イザベラが聞く限りでは他と音が違ったらしい。

「どうなっても知らねぇぞ」

 背中に乗せた少女の小さな体を行き止まりから少し離れた壁に預けると、ルカは袋小路の中心に立った。

 杖に使った影だけでは足りそうもないので、壁から取り出した影も加えて練り上げる。

 出来上がった槌は、確かな硬度と重量で存在を主張していた。

《魔術は必要か?》

「そうだな……『倍化』と『硬化』で」

 ルカが注文したのは、彼だけでなく多くの近接魔術師、特に鈍器や格闘を好んで扱う者たちが愛用している組み合わせだった。

 『倍化』は、対象者の生み出す力を文字通り倍増させる術式である。

 その力というものには無論、抗力や反発力といったものも含まれているため、この術を使った者が何かを殴ると、何かに対する力も倍。均等に、自分に返ってくる力も倍。ということになる。

 素手で石でも殴ろうものなら、指の骨などはあっけなく五本とも全損だ。

 それを避けるために、人体に使えば体組織の軟性と剛性を倍増とまではいかないまでも強化してくれる『硬化』はほとんど必須のものである。『硬化』はそのものの丈夫さを引き出す術式なので、一概に剛性だけが強化されるわけではない。

 単純に丈夫さが倍増しない分は防具などで補強するしかないのだが、魔術がないのに比べるとその差は歴然。ルカは普段着も同然、超がつくほどの軽装なので補強はできないものの、反力に耐えるだけなら魔術だけで十分だ。

 もちろん、戦闘において使われる組み合わせは、鈍器を用いた突貫工事にも非常に有効である。それは例えば、今のような場合も当てはまるのだった。

 イザベラは二つの発動のために、『増幅』『透視』『傾聴』の陣を停止させる。いくつもの術式を同時に発動させておくのは望ましくないとの判断だろう。

 開かれた頁の魔方陣にそれぞれ魔力を流し込み、陣の状態が自分を対象に稼動中であることを確認した。

「すぅー……はぁー……」

 深呼吸で身体から余計な力を抜き、両手に握った質量一五キロは下らない影槌を大きく振りかぶって、気合一閃。

「うぉ、りゃあぁあ!」

 槌が床と接触すると、詰まったものを叩いたときのくぐもった音とは異なる、響きを含んだ音が上がった。

 与えた力はだいたい二倍ほど、返ってくる力ももちろん同じである。肉体強化しているとはいっても、痛覚が鈍るわけではないので相応に痛いが、ルカの意識は響くようなその音に釘付けになっていた。

(これは……!)

 ルカは確信を得た表情で、床の軽く罅が入ったところに追い討ちをかけんと再び諸手を振り上げる。

「……せぃっ!」

 高々と掲げた槌を自らの身体と同期させることで、一本の鞭のように柔軟で滑らかな一撃が弱った部分を強襲した。

 豪快な破砕音と共に下へと続く階段が姿を見せ、ルカの腕に返ってきた衝撃は込められた力の凄まじさを物語っている。

 大音響に安眠を妨害されたらしく、轟沈した床を見つめて少女は大きな双眸をぱちくりと瞬かせていた。

《アリエルー、おはよー》

 これから最下層に赴くというのに、緊張感など微塵も感じさせないゆるゆるの声で、イザベラが声をかける。

「えっ、あ、おはようございます」

 何一つ状況が理解できていないはずだが、少女はしっかりと挨拶を返した。

「悪いな、起こしちまって」

 歩き詰めた後の神経すり減らしっぱなしで、心身ともに疲労状態のアリエルにとって二時間ほどの睡眠は些か短かっただろう。

「気にしないでください」

 なんとなくの申し訳なさを漂わせるルカに向けて、少女は可憐に笑ってみせた。

「……あぁ」

 なれば気にしないと唸り、ルカが話し始める。

「最下層にお前を連れて行くわけにはいかない。それはいいな?」

 確認というより半ば命令であったが、少女は大人しく頷いた。

「俺が戻ってくるまでイザベラと転移獣の中で待機すること。イザベラは俺が戻らなくても、合図があればすぐに移動してくれ。場所はどこでもいい」

《わかった》

「魔力は渡しとくから、『転移』の分を残して切れるまでは『倍化』と『硬化』な」

 本の表紙に軽く触れるとそれだけで受け渡しが終わったのか、ルカは階段を見据えた。

《一応持ってけ》

 イザベラは倉庫から、鞘に収まった剣を取り出して放る。

 ルカが受け取った剣は、軽量ではあるが扱い難い上、刀身で攻撃を受けようものなら容易く折れる脆いものだったが、それは「潰す」ための剣ではないが故である。

 脆さと引き換えに手に入れた薄さ、鋭さは、それが全てにおいてただ「斬る」ために存在していることが容易に推測できた。

 東洋で使われているという剣のその切れ味たるや、うっかり刃に触れればたったそれだけで手が裂ける。

 血で汚してしまったため仕方なく買い取ってからそれ以来、ルカの死線はこの剣に支えられてきた。死線の何倍もの人間を、切り伏せてきた。

 腐れ縁の片刃の剣を信じ、ルカは祈る。

「頼んだぞ」

《よっしゃ、上手くやれよ》

「が……頑張って、ください」

 アリエルの声援に、ルカは振り返って呆けた表情をしたが、すぐにふっと微笑して踵を返す。

 槌を振るって両刃剣に変化させると、右手を高く掲げた後姿は下層へと消えていった。


 今までと全く同じ二十の階段を下りると、短い通路が広大な部屋へと繋がっていた。

 試しに、影で作った小さな玉を部屋の中に投げ込んでみる。

 放物線を描いて宙を舞った影は、通路と空間の境に達した瞬間に掻き消えた。

(魔術は無効、かな)

 『倍化』と『硬化』にはそれなりに期待していたのだが、封じられてしまっては何の役にも立たないだろう。

 ヤケ気味に両刃刀を影に返し、腰に下げた長剣の柄を握り締める。

 何があろうとも不思議ではない。自分自身にそう言い聞かせて、ルカは部屋の入り口を潜った。

 途端に身体を包んでいた魔力の流れが感じられなくなる。魔術を当てにできないのは確実のようだ。頼れるのは、己の身一つ。

 部屋は天井まで約四メートル、床が一辺三十メートルほどの正方形で、九層目の通路と同じく、壁には等間隔で蝋燭の火が揺れている。

「よもやとは思ったが、やはり来たな」

 ルカが内部をより細かに観察しようと部屋の中央近くまで来ると、低く喜ぶような声が部屋に響いた。

 慌てて声のする方向、ちょうど真正面に向き直ると、黒曜石のようなものでできた小さな祭壇の上に人影が見える。

 ご丁寧に一つ一つ罠を解除しながら進んできた先行者様だろう。だが、その声にはどこか聞き覚えがあった。

「急ごしらえの罠程度では、足止めするくらいが精一杯だったか」

 床に降りたった人影は、小ぶりのナイフを手で弄びながら、こちらに歩いてくる。

 想像に違わず、物理に混じっていた魔術の罠はこの男が仕掛けたものらしい。

「実に昨日ぶりだな、ラストラデル」

 何を見ても驚くまいと思っていたというのに、薄暗がりから姿を現した男を見るなり、ルカの表情はまるで幽霊でも見るかのように硬くなる。

 忌々しい記憶の中で自分に向けられていた無関心な目が、少々の関心を湛えてルカを見ていた。

 少しだけ白髪の混じった茶色い頭髪も、こけた頬も、顔を縦断する切り傷の痕も、全ての要素があの男に合致する。

「ディハイメル……!」

 恩師の仇を睨みつけ、ルカは奥歯が割れそうなほどに歯噛みした。

 昨日ぶり、ということは脇腹の刀傷をつけた白装束もこの男だというのだろうか。

「なんでお前が、ここに……」

「仕事だ」

 ルカの質問に漠然と答え、男は再び部屋の奥に歩き出す。

「張っておいた結界に何者かの姿が映った。本来ならば当に帰途についている時間だが、魔力の波長が昨日の不届き者と同じだったのでね。部下を使って罠を張り、万が一ここに到達することも考えて待たせてもらった」

 不機嫌そうに後頭部を掻き毟るルカに、ディハイメルは自分がここにいる理由を説明した。

「そういえば、最近は殊更に賞金首を狩っているようだが、どういう風の吹き回しだ?」

「……金がいい」

 今にも腰に下げた鋼を抜きそうになるが、理性で何とか押し留める。

 無策に突っかかっても、それは自殺と大差ない。昨日の戦闘から、何となく力量の差はわかったつもりでいた。

「昨日ぶりとか言ったな。まだ罪伐隊の隊長様なんぞやってたのかよ」

「答える義理は、ないな」

 ルカが苦し紛れに発した問を嘲笑して、ディハイメルが片手を挙げる。

 すると、暗がりに紛れていた白装束たちがぞろぞろと姿を現した。

 中には昨日の戦闘で見かけた顔もあり、戦闘の指揮をとっていたのが目の前の男であることは間違いなかった。

「チッ」

 その戦力差に、苛立ちを隠せない。

「魔術が使えないのはここだけだ。正確な座標さえ外に渡しておけば、軍勢が尽きることはない」

 駄目押しとばかりに、ディハイメルは底意地の悪い声を出した。

 洞窟や遺跡などでは、適当な転移で罠に引っ掛かることを避けるため、座標がない状態で転移をすることはまずありえない。

 一人の場合、全て探索を終えるまで転移の使用が限られるが、集団ならばその限りではないのだ。数の差が戦況に大きく響いている。

 夢のせいだとは思いたくないが、危機的な状況であることに違いはない。

「目標の討伐を最優先とする。いいか!」

「「了解」」

 フードを目深に被り直した隊長の命に、屈強な男たちは声をそろえて応じた。

(二人に、なんとしても合図だけは送らねぇと)

 今は余所事を考えていられるときではない。

 脳を揺らして雑念を消し去り一点、イザベラへ合図することを頭の片隅に置く。

 あの男を始末することに全力を注ぐのは、すべきことが終わってからでも遅くはない。ひとまず今は、合図することだけを念頭に。

「…………ふっ」

 短く息を吐き出すと同時、切り替わった意識の赴くままに鞘から剣を抜いた。

 警戒を怠って部屋の中央に踏み込んでしまったことが悔やまれるが、悔やんでいる暇があるならここを出なければならない。

 立ちはだかる者に容赦をしている余裕はなさそうである。

 ただしそれは本能的な殺戮であってはならない。理性的に、彼奴らの動きをしばらく止めるだけだ。

 死なず、殺さず。隊長に関しては少々手がかかるだろうが、不可能ではないはずだ。

 ルカはだらりと下げた左手に蝋燭の明かりを鋭く反射する片刃の剣を、右手には戦闘支援用の両刃ナイフを構え、最初の一人が動くのを待った。

 誰一人として、音を立てる者はいない。

 ルカの周りを囲んだ十数の兵たちは、ルカの動き方を窺っているようだった。

(それなら……)

 気取られない程度、鍔元を握っていた左手の小指と薬指に力を込める。

 下腹部にある重心を、徐々に前に押し出していく。体勢が変わっていることが目視ではわからないほどに緩慢な動作で、ルカは僅かに身を落とした。

 姿勢の変動にいち早く気付いたディハイメルが命令を飛ばそうと、結んだ口唇を離した瞬間、傾けていた体重と恵まれた筋力を利用して床を蹴る。

 石材と足裏が離れると、目の端で捉えていた者の姿は消え失せた。視界の中心で見据えているのは、長大な鉄槍を構えた重装騎兵の足首。

 ルカの剣が自分に向かっているのだと遅まきながら理解した様子の兵士は、あまりにも急な攻勢に困惑しつつ構えた槍を前に尽き出す。

 突発的な状況にしろ右肩直撃の優秀な一撃を、上体を仰け反らせながら左足を軸にした回転運動で何とか回避する。

 右手のナイフを逆手に握りなおし、持ち上げた右半身の勢いそのままにナイフの刃で装甲の隙間、手首を切り上げた。

 肉を断つ軽い感触が伝わるのも待たずに、視界が床と平行状態にあることを確かめる。問題無しと判断すると、下げていた左の剣先を相手の足首と同じ高さに合わせた。

 思考の間もなく、ルカは血の跡を宙に残して水平を薙ぐように剣を振る。きつく張ったロープを斬ったような音と感触が、耳朶に響き腕に残った。

「うぁ……!」

 擦れた声を上げて支えきれなくなった身体を倒し、先頭に立っていた兵が一人倒れた。

 だが気は抜けない。

 ディハイメルの命令を聞いた兵たちは、ほとんど無秩序とも思えるような勢いでルカ一人への襲撃に向かってきている。

 剣を振り抜いた独特の姿勢のままで、押し寄せる人並みの間隙を縫って駆けた。

 屈んだ体勢はそのままに、目に映る露呈した肉の部分をナイフの刃で掻っ捌く。

 先も含めて、三人の兵が片足を抱えて床に寝転がっていた。

 成果を数えることもままならず、すぐに身体を起こして跳躍、壁蹴りで進路を真逆の方向に転換する。

 このまま突っ切ることができれば部屋を出られるが、今は観覧を決め込んでいるディハイメルが黙ってそれを許してくれるとも思えない。

 倒れた三人に止めを刺すことはせず、未だに戦闘意思の盛んな集団の中にその身を躍らせた。

 地に足がついた一瞬の硬直を見逃さず、動かせない膝下を狙った斬撃が放たれる。

 前からの一太刀を右手のナイフで際どく防ぐと、弾かれる方向に合わせて飛ぼうとし、チラと後ろを確認する。

「……っ!?」

 ちょうど着地したルカの頭蓋が来る辺りに振り落とされる形で戦斧が構えられているのが目に入った。乱戦の中にも拘わらず連携が乱れていない。

 急遽予定を変更し、ナイフの強度を信じて床に突き立てる。何とか攻撃の勢いを殺して、動くようになった足を伸ばし剣にそって右側に移動する。

 飛び下がっていれば頭部を両断していただろう重撃が床に激突、鈍い金属音が響いた。

 その音に粟立つ肌が意識の端に上らないよう前を見据え、肩を覆う軽量の装甲もろとも攻撃の勢いを殺してから未だ立ち直っていない兵士の右腕を叩き落す。

「な……!」

(まぁ、これじゃなきゃ斬れてないだろうね)

 噴き出す飛沫が視界の妨げにならないように、体内を通過した金属の感触に驚愕する兵士を蹴り倒した。

 前方たった二十五メートルほど先には通路への出口が開き、その向こうでは何も知らずにルカを待っている二人がいる。

 戦闘が始まって幾ばくと経っていないおかげか、まだ敵勢の増援はないようだ。

 隊長含め、敵の数は十三。無理やりに切り込んでしまえば、声くらいは届けることができるかもしれない。

「殺されたくなかったら、そこをどけぇぇえええ!!」

 鬼気迫るルカの叫び声と、その右手に構えられた薄い金属板をものともせず切り裂く魔刀の血に塗れた刀身に、兵士たちは思わず身を引いた。

 出口まで一直線とは言えないまでもずいぶん通りやすくなった人ごみの中を、周囲に睨みで牽制をかけながら走り抜ける。

「何をしている、目標は単体だぞ」

 ディハイメルの余計な口添えで、引いていた勢力は再び盛り返そうとしていた。

 だがその一瞬さえもぎ取ることができたのなら、それはルカにとっては僥倖以外の何物でもない。

 既に通路との距離は五メートル以下に縮まっていた。

 戦意を取り戻した軽装兵が単身、目の前に飛び出してくる。突っ込んでくるルカの勢いを利用して長刀で串刺しにする魂胆か、刺突の動作で真っ直ぐに剣が伸ばされた。

 狂いなく心の臓を射抜く位置にあった剣を、右手のナイフで左に払う。元々左寄りだった剣先は少し逸れ、ルカが軽く上げた左腕の下をすり抜けた。

「しまっ……」

 先の動作で前に出ていた肩に力を込め、体勢を低くして兵士の鳩尾を突き上げるように抉り込む。

 人一人分の体重をまともに肩に受けて靭帯が鈍く痛むが、今は構っていられない。

 浮いた兵士の体を痛む右腕で横に押しやり、残った距離を一気に詰める。

 通路に出ると、イザベラが根気良く発動を続けてくれていたのか、部屋に入る前には感じていた魔力の流れが戻ってくる。

 階段へ続く短い道程を駆けるのももどかしく、ルカはできる限りの声で叫ぼうと口を開いた。

「にげぉあっ……」

 彼の脳髄は口や舌に対して「逃げろ」と発音するように命じたはずだが、口から漏れたのは不明瞭な呻き声だけだった。

 疑問が湧いたのとほとんど時を同じくして、横隔膜がある辺り、やや左側の背中に鋭い痛みと冷たさを伴った異物感があることに気付く。

 前面に傷はないが、身体の中央まで深く突き刺さった感触はおそらくナイフ。自分が今右手に握っているものより小さ目のそれは、投擲に用いられるものだろう。

 背中が少し窮屈に感じるのは、おそらく刃が根元まで刺さって柄が当たっているから。投擲ナイフ如きに『硬化』中の身体が易々と貫かれたことには多少の動揺があった。

 昨日、転移の間際に少しだけ見えたその武器を投げた者は、フードを被った罪伐隊の隊長で間違いない。

 振り返れば、ディハイメルはナイフの刺さった場所に不服のありそうな顔で右腕を下ろしたところだった。

 少なく見積もっても十五メートル以上離れている祭壇の上から投擲されたにしては、凄まじい威力だ。ルカは改めて力の差というものを見た気がした。

 それでも分析を止めている暇はなく、頭は忙しく回りつづける。

 刺さった位置と、そこが狙いでなかったということから、十中八九心臓を狙っていたのだろう。ルカの常套手段である『転移』の術式が使えない今、滅多にない機会を逃す気はないらしい。

 いつも以上に狙われている心臓にチラと目をやって、もう一度声を出すために息を吸おうとする。

 しかし、傷ついた横隔膜が肺に空気を導く自らの任を全うしようとすると、突き刺さったままのナイフが体内で動き、裂けるような痛みが左胸を襲うだけに終わった。

 ナイフを抜けば出血が増え、抜かないままでは声を出すこともままならない。

 どうするべきかを悩んだその間に、部屋への入り口は兵士たちの屈強な肉体で塞がれてしまう。

「通路では魔術が有効だ」

 祭壇を降りてこちらに向かってくるディハイメルの端的な助言を聞き、正面からルカに対峙している三人が一斉に詠唱を始めた。

 詠唱は魔方陣に比べて効果が薄く時間を要する反面、一撃の消費魔力が少ない。また、攻撃系の術であれば、一度の詠唱で複数回の発動が可能である。

 戦争のための軍隊でもなければ、戦場にかさばる魔術書を持ち込む者はいない。故に当然とも言える詠唱の僅かな時間だけが、最後の希望となる。

 ルカは得られる限り最大限の五感からの情報を頼りに、最善策を探し出そうと脳神経を酷使した。

 退路が階段しかない上、背中の違和感のせいで動くこと自体が辛い。『倍化』のおかげで推進力は稼げるが、それによって発生する倍の反力は容赦なく体内のナイフを揺さぶる。

 兵士の手元に集約している光力の形状からして、彼らの放つ魔術は光系統の射撃型だろう。当たれば腕の骨程度なら簡単に持っていかれそうだ。一度くらいなら影の中でやり過ごせるかもしれないが、復帰した直後の反撃が避けられない。

 この時点で、詠唱は半分ほど終わっていた。しかし、光系統の魔術に不可欠な光がそう豊富ではないため、肝心の光球の完成には地上より一割ほど多く時間がかかっている。

 ルカは避けるという選択肢を除外し、攻撃を防ぐことだけに意識を向ける。

 光弾を完全に無効化することはできなくとも、一時的な目眩ましに使える程度の分厚い壁があれば問題ない。

 追尾機能があることを考えると、小型の盾では不足だろう。

 壁の位置はできるだけ敵の目の前がいい。遠隔操作はあまり得意ではないが、自分の真ん前に構築することに比べれば何倍もの効果が上がるはずだ。

 思考がまとまると、頭の中の想像図を掘り起こす。身体を屈める暇すら惜しく、伸ばした左手を持っていた剣ごと影に突き入れた。

 厚く強固な壁を想像し、具象化させる場所まで魔力を伸ばす。

 あまり時間をかけてはいられないため、ある程度離れたところまで到達した時点で影から魔力を引きずり出した。

 完成した光弾を放とうと兵士が構えた腕の前に、黒壁が横から迫り出すように現れる。

(間に合ったか?)

 しかし、完全に空間が隔絶されるその前に、通路に飛び込んできたものがあった。

「うぁっ!?」

 右太腿に金属が突き刺さる感じと思わず上げた叫び声で痛む胸に意識が飛びかけ、両膝を地に付いたものの、壁の構築は無事に済んだようだった。

(今のうちに……)

 壁がこちらを守ってくれている短い間に、ここから離脱しなくてはならない。壁に手をついて、立ち上がる。

 動くことそのものが苦だとしても、その動作は決して不可能ではないはずなのだが。

(動、かねぇ……?)

 ルカは膝を折ったままの姿勢から、動くことができなかった。

 右足以外の部分に不自由はない。腿に突き刺さったこの凶器に何か塗りこまれていたのか、流れ出るように感覚が消え去っていく。

 完全に麻痺した神経は、意思どおりに動くことを良しとしない。

(くそっ)

 鞘に収めた東洋刀を杖代わりにして何とか立ち上がる。だが、前に進もうにも『倍化』による推力を片足で支えるのは難しく、十秒足らずで壁が瓦解したときでさえ、階段に辿りつけてはいなかった。

「麻酔の味はいかがかな?」

 ディハイメルが怖気のする笑みを浮かべたのと。

《おい、アリエル!》

 半分錯乱しているかのようなイザベラの叫び声が聞こえたのと。

「はっ!」

 兵士の手元から三人分、三発の光球が放たれたのはほぼ同時に起こった出来事だった。

 三つの光弾は寸分の狂いもなく、一直線にルカの頭を吹き飛ばそうと飛んできている。

 へばって壁に寄りかかった体勢のまま、明確な殺意が迫っているというのにルカは全くの余所事に頭を使っていた。

(何があった?)

 アリエルはいったいどうした。

 せっかく見つけた、同じ痛みを知っている人間だというのに。

 自分だけではない。そんな安い慰めが少しだけ実感できていたというのに。

 たった数時間でも「自分だけ」から解き放たれたこの身で、またそこに戻ることになるかもしれない。蜜を求めつづけるこの身がいずれ壊れることは、火を見るよりも明らかだろう。そんなことはごめんである。

 そして何より、自分を起因として他人が死ぬことだけは、耐えられなかった。

 だが、精神に反して体は動かない。

 這って進むことはできるが、最も重要な歩くという動作が酷く困難なことのように感じられる。

(ああ、やっぱ俺ってダメだな)

 そう思い、伏せていた顔を上げて初めて、もうすぐそこまで攻撃の手が進んできているのを知った。

(ほら見ろ、これだか……ら?)

 捻くれた物思いを中断させたのは、視界に飛び込んできた小さな影だった。

 それは地底の闇の中にあってさえ光を逃すことなく美麗に煌く尾を引いて、ルカと光球の間に飛び込んできた。

「……何!?」

(アリエル!?)

 まだ十歳ほどの子供が必死ながらも、後方を守るというにはあまりにも頼りない体躯で手を広げていることに兵士たちとルカは揃って驚愕した。

 先頭の兵士は目を疑うその光景そのものに。

 ルカは心配していたその姿が、最悪の展開で現れたことに。

「ょ、こふっ……」

 避けろと言う代わりに、口の中に血の味が広がる。

「ァリ……ル!」

 名前を叫んでみても、咽喉の奥から出るのは擦れた呻き声ばかり。心中がそう簡単に伝わることはなく、アリエルは依然としてその場を動こうとはしなかった。

 先頭に立っていた兵士が小さく十字を切るのが見える。

 真っ直ぐに飛んできた光弾が、少女の肌に触れた。

 その瞬間に見た光景と感じた衝撃は、きっと死ぬまで忘れることがないだろうと思われるほどに奇妙なものだった。

 それは刹那の出来事であったが、ルカの目にははっきりと光球が綿に吸い取られる水滴が如く肌の中へと消えたのが見えた。

 防御されたときのように砕け散るわけでもなく、無効化空間に掻き消されたようでもなかった。ただ、吸い込まれたという他にない。

 魔術が効果をなさない。今までどこか信じきれていなかったイザベラの仮説が、事実を持って証明されたのだった。

(……いったい、お前は何者なんだ……)

 自分を守ってくれた少女に、ほんの少しだけ恐怖のような感情が芽生える。

 どういうわけか生きている彼女を見て、安堵の息を漏らしている兵士とは真逆の心境だった。

「だ、大丈夫ですか?」

 しかしそれも、おずおずとしたアリエルの声を聞いた途端に吹き飛ぶ。

 むやみに心配したおかげで、それはこっちの台詞だ! などと怒鳴りつけて説教の一つでもしてやりたい気分になったが、ルカを思ってのことだろうと考え直して苦笑いを返した。もう声を出す気力はない。

 振り返ったアリエルはその苦笑いを見ると、ほっと息をついた。まだ表情を浮かべる余裕があることに安心したらしい。

「行きましょう」

 アリエルは引き締めた顔でルカの手をとると、イザベラが待っているであろう階段の方向に引いた。

 だが、感覚を失った足はそう簡単に言うことを聞いてはくれない。

「逃がすな。確実に仕留めろ」

 ディハイメルが指示を出すものの、戦場に子供が闖入してきたことに当てられているのか、兵士たちの動きは先ほどよりも鈍っているように思われた。

「……貴様がやれ」

「で、ですが隊長……よろしいのですか?」

 明らかに困惑した様子で、一人の大剣使いが声を上げる。

「聞こえなかったか?」

 しかし、硬さを増した声はそれ以上の反駁を許さなかった。

 無言の空白が、兵士に圧力をかける。

「りょ、了解いたしました!」

 部隊長に敬礼で応えると、比較的大柄の男が二人の前に歩み出た。

 男は黙って背中に背負っていた剣を構える。

 武装が立てる金属的な音が、緩みかけていた意識を再び戦闘のために冷たく澄ませた。

 比較的重装であるため兵士の動きは鈍いが、刃渡りがゆうに身長を上回る巨大な剣はそれを補って余りある破壊力を秘めていた。

 恐ろしいことに、その兵と二人の間は五メートルと開いていない。もう少しでも間合いを詰められれば、両手に構えた大剣を一薙ぎされた時点で二つの命は容易に消える。

 それを承知の上でか、罪伐隊はことの行方を静かに見守っていた。

 まさか本気で少女を殺める気もないだろうが、ルカのことを庇ったせいでアリエルの立場はあまり良くない。

 もし巻き込んでしまっても、ディハイメルはそのことを大した問題として取り立てるつもりなどないに決まっている。

 彼が己の正義のためには何をするにも躊躇いがない人間だと、熱心に情報を集めていた時期に知った。

 正義の邪魔立てをする子供が一人死んだところで、奴は眉一つ動かさない。

 少女一人守れて然るべき、そう思ったのはいつのことだったか。ずいぶん遠く感じるが、たった半日ほど前の決意なのだった。

 ここで、アリエルを殺させてはならない。

(お前は、生きなきゃ)

 動く上半身全ての力で少女の身体を階段へ押し出す。

「えっ……?」

 助けるために差し伸べた手を離され、アリエルは純粋な驚きを湛えた目でルカを振り返った。

 胸を刺す罪悪感を振り切り、ルカは自分と彼女の間に物理的な壁を作り出す。

「ルカさん!? ルカさん!」

 突然のことに、アリエルは裏返った声で壁を叩いていた。

 初めて名前を呼ばれるのがこんな風情のない場所とは少々不満だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。

(頼む、逃げてくれ)

 伝わることがないとわかっていても、そう思わずにはいられなかった。

「少しは人間らしいことをするのだな、罪人」

 距離を詰め続けてきている兵士の言葉に笑みを返すと、杖代わりにしていた東洋刀を鞘ごと腰に収め、右手を柄に添える。

 動く左足を最高の速さで跳べるように角度を調節し、右足は邪魔にならないように手で尻の下へ入れ込んだ。

 片膝をついた姿勢を崩さず、眼光に切れるような殺気を孕ませて敵の初動を待つ。

 何らかの術式で強化されているだろうが、大剣を振る際には必ず隙ができる。振り始めの、振りかぶってから斬撃に持ち込む一瞬、剣の速度はゼロになる。

 斬れるならそこしかない。殺してしまわないように、細心の注意を払う。

 相手もルカが何らかの方法で反撃してくることがわかっているようで、剣の先一割ほどが当たるような間合いで進行を止めた。

 ふと、壁を叩き続けていたアリエルの声が止み、目に映るのは相手の右腕だけになる。通路は耳鳴りがするほどの静寂に包まれた。

 鞘から刀身を覗かせて、微妙な変化が起こるそのときを待つ。

 静けさが下りた直後、男の上腕筋が僅かに盛り上がるのを見た瞬間、ルカは床を踏み抜く勢いで地を蹴った。振られる大剣のギリギリ下を通過するつもりだったが、片足で踏み切ったせいで僅かにズレが生じる。

 戦場に扱いづらい武器を持ち込むだけあって大剣使いの技量も尋常ではなく、予想を上回る振りの速度と、すぐに剣線を修正できる正確さを持ち合わせていた。

 それでも背中を掠める程度で、大きな手傷はもらわない。

 『倍化』で増しているルカの速度の方が速く、東洋刀は鞘から抜け出した勢いそのままに相手の右腕を身体から切り離す。

 大剣使いは苦悶に歪んだ表情で自分から離れていく右手を見つめ、その先に視線を這わせて何かに気付いたようにほくそえんだ。

(笑っ、た……?)

 あとは離脱するだけと着地の姿勢をとったルカの背中で軽い衝突音がして、左胸が弾けるような痛みに見舞われる。

 切り離した右手と大剣は、離れる直前に与えられていた僅かな動きに従ってルカの背中を掠めた。

 背中に突き刺さっていたナイフの柄が掠めた剣に引っ掛かる。ルカの速さで発生した相対速度は、小さな刃物をずり動かすには十分だった。

 大剣に押される力で、ナイフは刀身を全てルカの身体に突き入れたまま横隔膜から腎臓にかけてを引き裂いたのだった。

「ぐっ……」

 身体の中を真っ二つに引き裂かれる感覚が、死という恐怖をそのままに運んでくる。

 体内を蝕んだ小さな金属は、大剣に弾かれた勢いのまま床に落ちた。重量を物語る低い落下音に混じって、小さく高い音が回廊に響く。

 消えかけた意識の中で、落ちていくはずの部分に硬い床ではなく暗黒を物質化したような転移獣が大きく口を開けているのだけが確認できた。

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