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家族の事情  作者: 雪消陽
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Ⅱ 過去と現在

 昨夜の静けさが夢幻のように、朝から街は賑わっていた。

 立ち並ぶ市からは品物をはけさせるための売り文句が飛び交い、行き交う人々も皆真剣な目で品定めをしている。

「アリエル、まずは朝飯でも……アリエル?」

 イザベラが振り返ると、今までそこにいたはずの少女の姿がない。

 子供と触れ合ったことのない彼らは、はぐれないように人ごみでは手を繋ぐ、という至極当然の考えが浮かぶこともないのだった。

「やっべ、見失った」

 一つもやばいと思っていない呑気な面構えで、イザベラが後頭部を掻く。

《親でも見つけたんじゃね?》

 もしかすると幼子の面倒を見ることになりかねないルカの声は、ちょっとした期待で揺れていた。

「何!? それじゃ私のお楽しみは……!」

 別な方向で事態の深刻さに気付いたらしく、往来のど真ん中で両手を震わせる。

《そんなもんより飯だ、飯》

「いや、見つける……見つけるぞ! あんな目立つ髪色してんだ、すぐわかる」

 イザベラの気合に対し、ルカはこれ見よがしに腹の虫を鳴かせた。

「本が腹減らしてんじゃねー!」

《お前だって普段は本だろ、腹減るだろ》

 本である期間は圧倒的にイザベラの方が長い。ヘタに本の苦しみがわかってしまう分、言い返す言葉がなかった。

「でもさぁ、アリエルがさぁ……なんだよ」

 服の裾を引っ張られ、イザベラは苛立ちを隠そうともせず視線だけを横に向ける。

「ぁ、す……みません」

 萎縮したアッシュブロンドが、申し訳なさそうに血色の瞳を窺っていた。

「アリエル――――――!!」

 多量の人目も憚らず、イザベラは奇声を上げてアリエルを抱き締める。勢いが余ったついでに黄金の猫毛が絡まるほどに頭を撫でまわす。

《はぁ》

 一方、ルカはため息一つを感想とした。

「へぁっ、はい!」

「お前どこ行ってたんだよ心配したんだぞおいなんで勝手にどっか行っちまうんだよだいたいな」

 機関銃のように言葉を撒き散らすイザベラを前に、アリエルはちらちらと胸元の本に助けを求める。

 ルカは素気無くそれを無視した。

「つかほんっっと、どこ行ってたんだよ」

「い、イザベラさんが歩くの速いから……」

 二人の歩幅を考えれば、イザベラの一歩はアリエルの二歩にも三歩にもなりえる。そんな当たり前のことを考えつかないのもまた、彼らならではのことではあった。

 つまり、アリエルはただ置いていかれただけである。

《んなことより、まずは朝飯じゃなかったか》

「お前の頭ん中にはそれしかないのかよ。ま、いいけど」

 再び人ごみに足を向け、はたと思い出したように少女の方に手を伸ばした。

「またはぐれてもらっちゃ困るからな」

 アリエルがおずおずと手を握ったのを確認すると、イザベラは目ぼしい店を探して歩き始める。

「アリエルー、何食べたい? ラスクか? サンドイッチか?」

 だらしなく蕩けきったイザベラが街道の両端を席巻する店を示して問いかけるたび、アリエルは目の空色を輝かせてそちらを見る。

 あっちへキラキラ、こっちへキラキラ。

「ホットケーキか?」

 そう問われ、品物を目にした途端これまでと比べ物にならないほどにアリエルの顔に喜色が浮かぶ。

 柔らかそうなきつね色のパンケーキに、滴るほどのメープルシロップ。甘い香りが路地を挟んだ向かいにまで届いている。

 少女は顔を覗き込んだイザベラに向かって激しく頷いた。

《えぇ? 朝から甘いもんかよ》

「文句がお有りで?」

 あからさまに文句がある声だったが、文句ないだろ、ないよな? と言わんばかりのイザベラの気迫はそれを押し込めるに十分だったらしい。

《……ないです》

「だってさ。よしアリエル、ホットケーキ食うか」

「はいっ」

 若干嫌がる本一冊を含んだ三人は、朝の混雑でてんてこ舞の軽食屋に足を踏み入れた。


 三人が朝食を終えた頃には、既に市の客足は減り始めていた。

 先ほどまでに比べれば幾分か穏やかになった人の流れを背に、イザベラは残った安物を片っ端から購入していた。

 買った品物は全てルカ入りの本に収納されているため、実質的な荷物の量は全く変化していない。

「必要なものはだいたい揃ったな」

 買った商品のリストを眺め、イザベラは満足そうにまた一つ野菜を本に押し込んだ。

 物欲しそうな目でアイスキャンディーを見つめていたところ、優しい店主から売れ残りを頂いてしまったアリエルも同様にご機嫌な様子である。

《……おいイザベラ。仕事は? こいつの親は?》

 ただ一人、ルカだけはあまりご機嫌麗しくないようであったが。

「そう慌てんなって。仕事くらい、ギルドに行けばいくらでも斡旋してもらえるさ」

《親の方が優先だろ。お前ホントに探す気あんのか?》

 鬱陶しくなったのか、胸元で暴れる本を眼前に吊るし上げる。

「バカタレ、もし見つかったらアリエルを好き勝手できなくなるぞ」

《それでいいんだよ》

 未だ真剣にアリエルをどうにかしようと考えているイザベラと、言ってしまったとはいえできれば世話などしたくないルカの意見はいつまで経っても平行線であった。

《ったく、お前に体の主導権を渡したのが間違いだった……》

「そりゃお前自身の判断ミス。街中で元に戻って即行で罪伐隊呼ばれるよか、ずぅっとマシだと思うがな」

 したり顔で買い物リストをポケットに突っ込み、イザベラは街道を街の中心部に向かう。もちろん、アリエルの手をとることも忘れない。

《とにかく! 仕事は俺が選ぶからな。ギルドに着いたらお前は隅っこの方で遊んでろ、いいな》

「いくなーい」

《俺の仕事だ、俺の!》


 中心から市街地全体を見渡すようにそそり立つ建物に囲まれて、お世辞にも立派とはいえない平屋が一つ。

 まだ日が高くないというのに、外からでも聞こえるほどの喧騒が中に詰まっている。

《ギルドってのは、相変らず耳に悪いとこだな……》

「慣れろよ、お前がギルド以外から依頼受けすぎなだけ」

 とはいえ、イザベラの声はいつもよりずいぶんと聞き取りづらいし、アリエルも耳を塞いでしきりに入り口を気にしている。

 王宮付になれなかった術師が大半を占めるギルドは、やはり何の耐性もない子供にとっては辛い場所なのだろう。

 なれなかったといっても、合格率五%未満の難関を越えられる者はそうそういない。

 ギルドが定常的に騒がしいのは、王宮付魔術師になるための試験に関して溜まりに溜まった鬱憤を晴らす愚痴り場になっている、ということが主な理由である。

 何度でも受けられる試験に合格することを諦め、はたまた諦めてはいないが落ち続けている者が集うギルドでの会話はずいぶんと限定的で騒がしく、盛り上がるのだった。

《仕事決まったら呼ぶから、それまで好きにしてろ》

「はいはい」

 イザベラは本を元の大きさに戻して中の魔方陣を一つ起動させる。そのままカウンターに放り投げると、アリエルの手を引いて人の少ない隅のテーブルに歩いていった。

《おい、非正規で受けれる仕事はないか?》

 ルカは表紙を鳴らし、奥でパイプを吹かす大男に声をかける。

「ああ? 契約魔か何かか、お前」

 男はパイプの灰を石の床に叩き落し、訝しげな顔でルカの前に腰を下ろした。

《まぁ、そんなとこだ》

「仕事をくれと言うなら紹介してやるが……そう良いもんはねぇぞ」

 彼は依頼の難易度ごとに割り振られた棚、その他と銘打たれた引き出しから依頼書を取り出し、ルカの前に積み重ねる。

《……確かに、ほぼ後金だな。しかも安い》

 重ねられた依頼書を適当に読み飛ばすルカの声は、どこか納得していないようだった。

「非正規に回せる仕事なんて、そんなもんだ。達成されればなんでもよし、間にギルドが入ってる意味なんてほとんどない依頼ばかりだよ」

 空になったパイプに新しい葉と火種を落とし、煙と共に男が吐き出す。

《やっぱ正規雇用には敵わねぇか……ん?》

「どうした、契約魔」

《おやじ、これもこっちの依頼か?》

 ルカが男に見せた紙の依頼主の欄には、イリュージア王宮の文字。

 この国を治めている家筋が依頼者であるという点も、指折り数えなくてはならない桁の報酬金も、とても非正規に回ってくる依頼とは思えない。

 依頼名は、行方不明者の捜索、と簡潔にそれだけ書かれていた。

「それは依頼であって依頼じゃねぇよ」

《……わかるように言ってくれないか》

 男は目の前のグラスに酒を注ぎ、王宮の依頼について語り始めた。

「王宮、つまるところイリュージア家が養子を取ったってのは知ってるよな?」

《いや、初耳》

「おいおい、魔術師じゃなくてもそれくらいは知ってると思うぜ?」

 こういった機会以外で世間と交流することのないルカにとって、情報というものは大変に貴重だ。それ故、よほど古いものでない限りルカにとっては有用な情報となる。

「まぁいい。一ヶ月くらい前、王家が養子を取った。ただ養子を取ったってことがわかってるだけで、あとはほとんど情報がねぇ」

《さすが秘密主義者だな》

「まったくだ。そいで、なんでもその子が持ってた力に興味がお有りらしい」

《力? それってどういう――》

「詳しいことは知らん」

 ルカの疑問には答えかねるというように、男はその場を文字通り煙に巻いた。

「だが、行方が知れねぇのはその養子だそうだ」

《へぇ……。依頼について、何か情報はないのか?》

 酒を飲み干して、男は首を横に振る。

「容姿や特徴に関しては、何も公開されてない。誘拐か失踪か、それすら闇の中だ」

《何だそれ、見つかるわけが……》

「だから依頼じゃないといっただろう」

 燃えカスだけになったパイプの中身を再び床に落としながら、男が嘆息した。

「そいつは、養子の見た目を知ってる王宮関係者に向けられたもんだ。ギルドはその情報交換の場として利用されてるだけに過ぎん。実際、その依頼が来てから四日ほど経つが、二回軍の連中が封書を取りに来たよ」

《ふぅーん……俺らにその情報が売られることは?》

「あるわけないだろう」

 ルカの希望的発言は、一笑に伏されてしまう。

「確かに金はいいが、あんたらの手に負えるようなもんでもねぇ。諦めな」

 報酬金をルカたちの月の生活費で割れば、約百年間は今までどおりの暮らしができることになるのだが、情報公開がないのなら人探しは不可能に近い。

(…………ないな)

 一瞬、力や迷子と聞いて金の髪を持つ少女が浮かんだが、ルカは妄想めいた考えを否定した。子供が誰からの手引きも受けずに王都から脱出するのは不可能ではないにしろ、困難なことに違いはない。

《今一人迷子を預かってんだけどよ》

「安心しろ、そいつぁ違う」

 ルカの言いたいことを察してか、大男は小バカにしたようにヤニで黄色い歯を覗かせた。

《……他を当たる》

「その方がいい」

 男はゆっくりと頷いて、王宮からの依頼書を引き出しに戻した。

《王宮のやつ以外に、迷子捜しはないのか?》

 迷子を捜す気はなく、今預かっている迷子を捜している人を探しているのである。

「他か…………残念だが、この中にはなさそうだな。迷子探しなんぞ、わざわざ依頼するのはそれこそ王家ぐらいのもんだ」

 ルカの希望はあっさり潰えた。

「今はどこも不景気だからよぉ。捨て子かも知れねぇな」

《…………そうか》

「あんま暗い声出すでねぇよ。王家の代わりと言っちゃ見劣りするが……こういうのでも良いんじゃないか?」

 男は依頼書を一枚、本の上に置く。

《あ? なんだ、盗みか?》

 依頼内容は目標の奪取と書かれていた。

《できればで構わない、近頃発見された古代集落で遺産を探し、持ち帰ってはもらえないだろうか……って! 王宮に喧嘩売ってんのか、コイツは!》

 遺産、簡単に言えば宝物であるが、それの管理は一括して王宮が行うことになっている。

 できたらというのはそういうことだ。王宮の目を出し抜くことができたなら、という意味である。

《あんたも、こんな灰色の依頼受けんなよ……報酬金は悪くないけどさ》

「今の時代、ギルドも仕事選んでられねぇんだわ」

 さらに煙草を入れ、一服。

 仕事を選べるほどギルドが潤っていないことはルカも承知しているので、男の意見に対して何かかける言葉があるわけではない。

 むしろ、仕事に関してだけならルカの方が数倍悪食なのだ。

《それもそうか……じゃ、おやじ。これ受けるわ》

「命知らずだな、契約魔」

 ニィ、と男が意地悪く笑う。

《ま、こっちも伊達に魔術師してないってことよ》

 ルカが強気に返すと、男はメモ用紙にさらさらとメモ書きを始める。

「契約金はナシ。目的のものを依頼主に届けりゃ依頼は完了、晴れて報酬金はお前さんたちのもんだ」

 そうそう首尾良くことが運ぶとも思っていないが、どうもそういうことらしい。

「依頼主の住所はここ。で、件の集落ってのがここだ」

 男がそれぞれの情報を書いた依頼書を寄越すと、ルカはそれを自分の中にしまいこんだ。

《助かった、ありがとな》

「おう、頑張れよ」

 ルカはパラパラと自身を捲り、イザベラが発現させていった『通信』の魔方陣を通して彼らに呼びかける。

《仕事が決まった、行くぞ》

 イザベラに対してそう呼びかけると、遠くの席で黒髪の美女が金髪の少女の手を引いて立ち上がる。

 こちらに向かってくる途中、イザベラは声をかけてきた男集に自分のコークグラスをちゃっかりといくらかで売り飛ばしていた。

 アリエルの使っていたグラスを大事そうに抱えているところを見ると、どうやら頂いて帰るつもりのようである。

「けっこう時間かけたな」

《何、ちょっと面白い話を聞いてただけさ》

「面白い話?」

 再び小さくした黒本を首から下げ、イザベラが疑問符を浮かべた。

《詳しいことは次の仕事場所に移動しながら話す》

「わかった。それじゃ、まずは街から出るか」

 建物の外に出るべくイザベラが玄関口に向き直ると、ちょうどそこから数人の男たちがギルドに入ってくる。

 揃って白い法衣を身に纏い、左胸には片側に羽毛を乗せた天秤を模した金の刺繍がついている。その昔、羽より軽いといわれる聖者の魂のみを選りすぐるべく神が用いた秤、だとか何とか。

「おっと、嫌なとこで会うもんだ」

 イザベラはほぼ反射的にチェーンから黒本を外してポケットに突っ込み、アリエルを自分の背後に回した。

《最悪だな》

 こちらに歩いてくる数人の男たちが、罪人討伐部隊。いわゆる罪伐隊の皆様方である。

 ルカとしては、街中にイザベラの姿でいる間も出会いたくない相手であった。

 もしもばれてしまった場合面倒なことになるし、イザベラの顔も知られてしまっては、それこそ俗世との関わりを持たない神のような生活を送らなければならなくなる。

 そんなステキな事態はお断りであった。

「イザベラさん」

 後ろに隠れていたアリエルが、不安げな声でイザベラの服の裾を引っ張る。

「どうした?」

「あの人たち……怖いです」

「まぁ、確かにな。んじゃ、隠れてろ」

 ルカがポケットの中で『隠形』の魔方陣を開いて魔力を込めると、イザベラを通じてアリエルに効果が発現した。

「気ぃ利くじゃねーの」

《……はぁ》

 褒められたにしてはおかしな反応だったが、今ここで国家公務員に預けておくのも手だったな、と考えるルカにしてみれば当然の反応である。

 罪伐隊は真っ直ぐにカウンターに向かうと、大男と二言三言やり取りをし、何かの封書を受け取って懐にしまいこんだ。

 ほとんど一日一回、罪伐隊までこうして封書をやり取りしているというのだから養子とやらの捜索にずいぶんと熱心なようだ。

 目的を果たした白装束たちが踵を返していく中、先頭に立っていた者だけがこちらを見て立ち止まっている。

 隊長なのだろう。昨日の男と同様、顔は法衣で隠れて確認することはできなかったが、こちらを窺っているのは確かだった。

「んだよ?」

 やや威嚇的に、イザベラは相手を睨む。

「……失礼した」

 男の低い声で白装束は頭を下げ、何事もなかったかのように建物から出て行った。

「何だあいつ?」

《気にすんな、バレなかっただけマシだ》

 かく言うルカの声も、僅かながら安堵の色が見える。

「アリエル、そのままにしとくか?」

「…………」

《頷いててもわからんからな》

「は、はい」

 アリエルとはぐれないようにしっかりと手を握り、イザベラはギルドを出ていった。


 封書の中には捜索中の娘の情報と、もう一枚の紙切れが入っていた。

「そちらは?」

 彼の傍らに立つ細身の男が、今読んでいる紙を差す。

「私個人への命令だ。お前たちは引き続き、お嬢様の捜索を。召集をかけた場合、指定した座標まで転移しろ、いいな」

「は!」

 彼の指示に威勢良く返答し、部下たちは情報を頼りに思い思いの方向へ散っていった。

『罪伐隊部隊長 ホルスト=ディハイメル殿、このたび新たに発見された居住跡での調査を命ずる。見つけた遺産は、当分の間の所持を認める』

 感情の見えづらい機械的な字を読み下し、ホルストは紙切れを封書の中に戻した。

 彼にしばらく使わせることで、遺産の重要性を見極めるつもりだろうか。

(陛下も食えないお方だ)

 苦笑と共に封書をしまい、ホルストは西の方角に進路を取った。


 街を出ると、ルカたちは昨夜野宿した場所に戻ってきた。

 道中で、ギルドから得た少量の情報はイザベラに聞かせてある。

「何だその報酬金! なんで受けないかなー」

 王宮が依頼主である迷子の捜索に関してはイザベラも興味があるようだった。

《受けるも何も……情報もないのに、迷子捜しなんてどうするんだよ》

 ルカの一見正統的な疑問に対して、イザベラは呆れを返す。

「お前なぁ、情報は元々売ってるもんじゃない。自分で探すもんだ」

 そこで、ルカも彼女の言いたいことがわかったらしい。

《それこそ面倒ごとに首突っ込んでんじゃねぇか。俺は罪伐隊とこれ以上親密になるのはごめんだぜ》

「でもさぁ、百年分の生活費だろ……」

《一攫千金よか、地道に仕事した方がよっぽど建設的だ》

 名残惜しそうに唇を尖らせるイザベラに、ルカは一般論を唱えた。

 分の悪い賭けであることに違いはなく、イザベラは残念そうに頷くばかり。既に活気ある街並みから遠く離れていることもあり、その表情はいっそう沈んで見える。

《……代わるか?》

 その様子を見かねてか、ルカは『反転』の魔方陣を起動させてイザベラに問うた。言うまでもなく、辺りに人気がないことを確認して、である。

 イザベラは力なく魔力を蓄えた魔方陣を起動させた。

 魔方陣が機能し始めると、沈鬱な女性の姿は頭の先から徐々に消えていき、代わりにその中心から一人の青年が這い出てきた。

 短い黒髪に、切れ長の眼。しばらく本の中に引っ込んでいたおかげで、脇腹の傷はやや回復しているようである。

 彼は縦に割れた瞳を動かし、突然のことに言葉を失っていそうな人物がいる辺りに声をかける。

「解くからな」

 はいもいいえも待たずに、ルカは起動していた魔方陣から魔力を抜いた。

 すると、何もなかったはずの場所から浮かび上がるように人影が現れる。彼女は、人が目の前で塵埃と消えたことに関する恐怖と好奇で妙な顔をしていたが、大方予想の範疇なので特に驚きはしない。

 それなりに高いところまで昇った太陽が、少なからずの時間が経ったらしいことを報せている。

 ルカは街の方角に一瞥をくれると、いつもよりも重い気がする本の『転移』と書かれた項を開いた。

 紙の上に手を乗せて魔力を送ってみるが、魔方陣は黙り込んだまま。

 ルカは造形術を究めた反面、その他の汎用魔術はからっきしである。

 低級のものなら見様見真似で何とかできるかもしれないが、中級以上に相当するものは『転移』も含めて大部分がイザベラを通して発現させているにすぎない。

 そのため、彼女の力添えなしでは満足に発動することすら叶わないのだった。

「ちったぁ協力してくれよ」

《……もうヤダー、休むー》

 すっかり気落ちしてひねくれてしまったイザベラは、とても協力などしてくれる雰囲気ではなかった。

 本日はもうテントを張って、寝るのです。まだまだ日が暮れるまで時間があるが、そんな強い志が端々から漏れ伝わってくる。

 このまま歩いて先に進もうにも、本日付でルカが面倒を見ることと相成った少女も少しばかりの疲労をその表情に滲ませていた。

 アリエルを負ぶって歩けるほど、ルカの身体状況も万全ではない。

(今回の仕事は速さが肝心なんだがなぁ……)

 ルカがどんなにそう思ったところで、彼とイザベラの間に働く強制力は存在しない。

 イザベラの機嫌が戻るのを待つしかなさそうだ。

「……ちょっと早いけど、飯にするか」

 これ以上進むことを諦めたルカは、ため息混じりに倉庫を漁り始めた。

 依頼書と今日の買い物で手に入れた食材、調理器具などを適当に取り出し、銀盆の上に並べる。

 水分少なめの安物パンに、やはり安物の加工肉と味はそれらしいチーズもどき。

「じゃ、あとこれで……」

 そこに、素性の知れない萎びた葉野菜が加わった。

 全ての食材を適当な大きさに切り、パンで具を挟み込めばサンドイッチの完成である。

「……お、おい」

 慣れないことに戸惑いつつ、ルカは放心状態で突っ立っているアリエルを呼んだ。

「はっ、はい」

 味のある表情から一転、アリエルは姿勢を正してルカに向き直る。

 その様子に苦笑いし、ルカは銀盆の上に乗せた昼食に視線を落とした。

「飯だ」

 近づいてきたアリエルは、銀盆を挟んでルカの前に座る。

「はいはい、お前も」

 周囲から根こそぎ光を奪っている本も食卓に参列させ、サンドイッチに向かって拝むように手を合わせた。

 それに倣って、アリエルも手を合わせる。

「「いただきます」」

《……いただきまーす》

(なんか、しっかりしてるんだよなぁ……)

 先の朝食でもちゃんと挨拶していたことを含め、謝罪や感謝、その他礼節も人並みだ。多少気弱ではあるが、このまま成長すればごくごく普通の女性になるだろう。

(俺の方こそちゃんとしないと)

 ルカは改めた認識に軽く自嘲して、昼食を齧った。

 口を滑らせるという形であったが面倒を見ると言ってしまい、不本意ながらその責務を負うこととなった以上、ルカは間違いなくその任を果たすつもりでいた。

 面倒を見るということがどういうことを指し示すのか、実のところルカ自身よくわかっていない。

 なので、少なくとも生きることに不自由しない環境下で、最低限の教養くらいは……程度のことは考えていた。行き着く先は一般人。それが互いにとって、最も影響のない接し方であろう。

《……ごちそうさま》

 相変らず、イザベラの機嫌はあまりよくない。

「そんなに王宮の依頼が気になるなら、やったらいいじゃねぇか」

 上機嫌になってもらおうとも思わないが、『転移』の陣すら使えないのでは集落に着くまでに何日とかかってしまう。

 今は寸刻でも惜しい。

《ふん、真っ先に反対したくせに何を言うか》

 イザベラは依然としてへそ曲がりのままであった。

「まぁ、俺が努力する気はねぇよ。俺が寝てる間とかに、体くらいなら貸してやるって言ってんの」

《お、お前……》

「貸し出し料として、報酬は共有だからな」

《やっぱり、お前が相棒で良かった……!》

 明晰な頭脳を鈍らせるほどの知的好奇心に、今のところは感謝しておく。

「止めろ、子供が見てる」

 ルカはふとアリエルの方を見ると、慌ててイザベラを引き離した。

 教育上悪いからではなく、端から見れば人が本に抱き着かれているのだ。よほど魔術に長けた家柄の子供でも、それは恐ろしい光景である。

 アリエルも例に違わず、手の中のサンドイッチを取り落としそうになり、すんでのところで踏みとどまったようであった。

「だ、大丈夫です。ちょっとビックリしただけなので……」

 少しバツが悪そうに、頬を朱にしたアリエルが視線を逸らす。

《可愛い……ギュッてしたい……》

「止めとけ、失神するぞ」

 荒い呼吸の黒本を制止し、ルカは最後の一口を飲み込んだ。

「ごちそうさま」

《アリエルー、お腹空いてないなら手伝ってやるぞー》

「え? あっ……」

 調子を取り戻したイザベラは、下心を隠そうともしない。

「止めろというに、うつけ者」

 黒本の表紙を軽く小突く。

 しかし、イザベラの言う通り、アリエルのサンドイッチは二回ほど齧られているだけだった。

「食欲ないか?」

「そ、そんなことないです」

 アリエルはすぐさま昼食にかぶりつく。

「おい、そんな一気に食うと……」

「んっ!?」

「……言わんこっちゃない」

 ルカは水を注いだグラスを、苦しそうに胸を叩く少女に渡した。

 決して少なくない水を一息に飲み干して気管を塞いでいたパンを流し込み、少女はほぅ、と安堵の息を吐く。

「落ち着いた?」

 ルカの問いかけに、空になったグラスを抱えたままアリエルは頷いた。

「今度は詰まらせるなよ」

 アリエルの意思表示に釘を刺し、木陰に身を横たえる。

「イザベラ、三十分後に移動するから起こしてくれ」

《わかった》

 了承の意を聞くと、ルカは開けていた目をゆっくりと閉じた。


 ただひたすらに、がむしゃらに、一人の少年が木立の中を走っていた。

 短い黒髪が印象的な少年は、まだ幼い顔を必死の形相に歪めて一直線に駆け抜ける。

(……俺は、何を?)

 ルカの意識とは無関係に、風が顔を撫でた。

(また、か)

 記憶が確かであるなら、これはおおよそ十年前の出来事である。

(また……あれを見るのか)

 ルカは意識の覚醒を願いながら、木の根に足を取られつつも前に進み続ける少年となって森を進んだ。

 やがて木の数が減っていき、突然視界が開ける。

「じぃさま!」

 声変わりのすんでいない高い声が、木々の間に反響する。

 ところどころ雑草が生えただけの剥き出しの地面は夥しい量の血で紅く染まり、肉塊や骸がそこら中に転がっていた。

 生臭い鉄の臭いが鼻腔を突く。

「じぃ……さま?」

 血溜まりの中に、少年の恩師たる老人が転がっていた。ただし、死んでいるのか、生きているのかは定かでない。

「ぁ……ぅぅ……」

 少年は声にならない嗚咽を上げて泣き崩れ、ぼやけた視界で仇の姿を探す。

 揃って法衣を纏った数人が立つ中で、一人だけ白の法衣を血に濡らした男は、白光を放つ剣を一振りして光の粒子に戻した。

 誰が手を下したのか。聞かずとも、答えは明白である。

 幼いルカは自身の影から小さな黒塊を取り出すと、何の飾り気もないナイフの形に造形する。翳してみると、鋭い先端が日の光を鈍く返した。

 ナイフを片手に、少年は力の入っていない足でゆっくりと一団に近づいていく。

「おい、ここは子供のいていいところじゃ……」

 彼に気付いた罪伐兵の脇をすり抜け、少年は一人フードを被っている男に向かって急加速した。

「!!」

 疲労からか、僅かに反応の遅れた兵の合間を縫い、目標の顔面目掛けて高く跳躍する。

 地面を蹴った力と伸び上がる力を全て、逆手に握った鋭利な影に込めて振り抜いた。

 小さな手ごたえがあり、少年の皮膚に生温く不快な液体の感触が飛び散る。

「うぁああぁあ!」

 そのまま腕を振り下ろしてもう一撃加えようとしたところで、少年の動きが止まった。四肢が白色の蔓に絡め取られ、思う通りに動くことができない。

「放せ、放せよ!」

「なんだ、まだ残っていたのか」

 ナイフを避けるときに落ちたフードを直そうともせず、男は少年に目を向けた。

 茶色く長い頭髪にホリの深い顔立ちをした若い男は、どこかそら寒さを感じさせる目で興味なさげに少年を捉える。

 頬から右目を掠めて眉間の上まで、少年がつけた切り傷に滲んだ血を拭うと、男は腰に下げていた小刀を抜いた。

「隊長、その者は討伐対象ではありません。殺せば、国王陛下の命に反することになりますかと」

「…………そうか」

 部下の言葉に小刀を納めてフードを被り直すと、男はルカの耳元で囁いた。

「お前が手配されるような罪人になれば、また出会うこともあるだろう」

 低く愉しむが如きその声に、ルカの肌が粟立つ。

「会わないことを祈っているよ」

 男は部下を引き連れ、光の渦の中で掻き消えるように姿を消した。『転移』でどこか遠いところに移動したのだろう。

 術者を失った蔓は風に流れるように消え、小さな身体は無造作に放り出される。

 やり場のない怒りに震える拳を、少年は何度も地面に打ちつけた。

「くそ……くそっ」

 手が痛み、やがて握っていた指に力が入らなくなる。

「ちくしょぉ……」

「……ヵ」

 噛み殺した泣き声の中に、少年は小さな呼びかけを聞いた気がした。

「……ル、ヵ……」

 聞き間違うことなどありえない。それは確かに、恩師の声である。

「じぃさま?」

 ルカは倒れた老人の元へ駆け寄ると、縋り付くように言葉の先を待った。

 老人はどこを見ているのかもわからない虚ろな目で少年を見やると、口を開く。

「良いか……憤怒のままに、人を殺めるでないぞ……人で、あれ」

 一息にそう言ってしまうと、老人は苦しそうに咳き込む。そのたび、口からは決して少なくない量の血が漏れた。

「人であれ……ル……ヵ」

 力なく発せられた愛弟子の名前を最後にして、老人の口は動くことを止めた。虚ろだった目から完全に光が消える。

 途端に、どうしようもない無力感と、果てのない悲壮感が重くのしかかってきた。

 何もできなかった自分が、許せなかった。

「……待ってて、じぃさま」

 肉体から解き放たれた魂は、新しく生を受けるそのときを輪廻の中で待っているという。今旅立ったばかりの命なら、呼び戻すことも容易なはずだ。

 少年は山小屋から一冊の本を持ってくると、書かれている内容と同じように、影で中に大人が寝られるくらいの魔方陣を描く。その中心に、法衣を着た骸を置いた。

 反魂の術式の中でも、最も簡易的な霊媒術式が完成する。

 儀礼的なものであるため、魔力を加えるだけで魂を召還することが可能である分、思った通りの結果が得られるとは限らない。

「今、呼び戻すよ……」

 魔方陣に魔力を流し込むと、陣は受け取った力を大幅に増幅させる。

 すると唐突に、森の空き地を何とも言えない寒気と静けさが覆い尽くした。

 少年の期待に満ちた目は、陣の中に置いた骸が砂像の如く崩れ去っていく様をじっと見ている。

 完全に屍が消失すると、地面から湧き出るように半透明の何かが現れた。

 その何かは、目を凝らせば人の形をしているように見えなくもない。

 やがて魔方陣が急速に収縮し、何かとルカの間を魔力の繋がりで縛った。魂だけの存在がこの世に留まるために、生きた命が錨となるのである。

「……あ、あなたは……あなたは誰?」

 ほんの僅かに期待を込めて、少年は何かに問いかけた。

 無数の死霊から一つだけが呼び出されてくるのだとわかっていても、その可能性がゼロではないことが少年に期待を止めさせない。

「……イザベラ……イザベラ=キルヒナー」

 だが、少し雑音の混じったような女の声に、少年の期待は塵と消えた。


 あの日から時折この夢を見るたび、ルカは自分の進んできた道に疑問を感じていた。

 人であれ。恩師が最期、自分にかけてくれたその言葉を、ルカ自身遂行できているとは思っていない。何せ、今や自分は罪伐隊に追われる人間である。

 それでも不安を抱きながらこの道を行くのは、あの男に老人と同じような苦痛を味わってもらいたい、生き殺しにされた苦しみを知って欲しい、と真に願うが故であった。

 それまでは、こんな弱気になってなどいられない。

 寝転がっていた体を起こして、懐中時計を開く。起こしてもらう時間の三分前だった。

 頭を振って居座る眠気を追い出し、凝った筋肉を解す。

《お、自分で起きたな》

 寝息を立てているアリエルの頭の下で、イザベラは枕の代わりになっていた。

「……久々に、あの夢を見た」

《おいおい、止めてくれよ》

 その言葉を聞くと、イザベラは声の調子を落とす。

《また何か碌でもないことがあるんじゃないだろうな》

 それは年に何度とあるわけではなかったが、ルカが己の道に疑念を抱くたび、彼らは何かしらの災難に見舞われていた。

それは主として、罪伐隊の精鋭に出くわすことである。

 それらの出来事は、まるで疑問を持つこと自体を否定されているかのようだった。事実災難が過ぎ去った後の心には、迷いなど残っていなかった。

「そうならないといいな」

 だが、災厄と出くわすようなことはない方がいいに決まっている。

《……ま、期待するだけ無駄だろう》

 うんざりすると同時に、諦めの良いイザベラは事態を達観していた。

 潔くないルカは相棒の態度に苦々しさを隠さない。

「少しは希望も持たせて欲しいもんだ」

 立ち上がって背体についていた葉屑を払い落とした。

「行くか」

《アリエル、起きろー》

 イザベラは表紙を軽く動かしてアリエルの頭を揺さぶる。

「ん、んん……」

 薄い瞼を震わせ、少女の目が開いた。

 鈍重に体を起こし、アリエルはまだ寝足りないという風に目頭を擦る。

 ついさっきまで枕になっていた黒い本を拾い上げ、ルカは『転移』の魔方陣に魔力を流し込んだ。

「魔力バカなんだから、このぐらいの魔力は貸しにしてくれたっていいと思うんだよな」

《……貸しってのはな、返してくれる奴にしとくもんなんだ》

「俺が返さないとでも?」

《少しは思ってる》

 軽口を叩きあいながら魔力を込め終わると、魔方陣が仄かに光を放つ。

 ルカは皺のついた紙を魔方陣に重ねた。

「はいこれ」

《えーっと、ああ、座標ね》

 すぐにイザベラが作業を済ませると、影の中から一匹の大蛇が這いずり出る。

「おい、行くぞ?」

 フラフラと立ち上がったアリエルは、いつの間にか全長十メートルは下らないだろう大蛇が横たわっていることに驚いた様子も見せず、ルカのジャケットを摘んだ。

 どうやら寝ぼけているらしい。

「…………feb.」

「!?」

《な……っ?》

 その呟きは、詠唱にしばしば用いられている古代言語によく似た響きを持っていた。だが、どういう意味なのかまではわからない。

 イザベラも本の中で驚愕の表情を浮かべていることだろう。

「えと、どうした?」

 特に深いことは考えず、今はほとんど立っているだけの少女に呼びかける。

「Mim……feb bpm’t rika uq」

「……なんて言ってるかわかるか?」

《始めは、父よ。その次は、母よ、父は起きないのですね、だが……正直どういうことかはわからん》

「そうか……」

 ごく当たり前のことだが、アリエルには父と呼べる男性と、母と呼べる女性がいたのだ。夢うつつの言葉が、そう物語っていた。

 幼い頃の記憶が忘却されていたとしても、母親と共に父親を起こしたこと、もしくはそれに近い何かがあったに違いない。

 だが、彼女は親などいないと言っていた。辛すぎて忘れたのか、小さかった彼女がそのことを記憶に留めておけなかったのかは闇の中だ。

 引き離されたのだろうか。死別したのだろうか。この小さな少女も、自分と同じように大切な何かとの離別を味わったことがあるのだろうか。

 だとしたら、泣いただろう。激しく、体中の水分を全て使い切ってしまうのではないかというほどに。かつての自分と同じように。

(同じなのか……? お前も)

 ほとんど初対面の人間に対しておそらく初めて味わうであろう親近感、その筆舌に尽くしがたい感情に惑うルカの手は、中途半端な位置で留まっていた。

《似た者どうし、だな》

 彼の胸中を察したように静かな声で呟いて、イザベラは影の手を蛇の口腔に伸ばす。

《先に入ってるよ》

 言葉通りにイザベラが蛇の体内に消えても、ルカの右手は迷ったままで妙な痙攣を繰り返していた。

 その柔らかなブロンドヘアを指に通そうか、ジャケットを握る左手を払おうか。

「おーい、起きろ」

 しかし、そのどちらも実行されることはなく、少女の肩が軽く叩かれる。

「……あ……おはよぉございます」

 少しばかり呂律の怪しい部分はあったが、意識は覚醒状態のようだ。

「目的地まで飛ぶぞ」

「あ、は……い?」

 眼前の大蛇の悠々たる姿に、アリエルは言葉を失う。

「怖いか?」

 ルカは開かれた大きな口の中に入ると、彼女に向かって笑いかけた。

「大丈夫だろ、こっちこいよ」

 踏ん切りがつかなそうな背中を、すかさず発した一言で後押しする。

「アリエル」

 少女はほんの少しの間を置いて、花開くように微笑んだ。

「……はい!」

 ルカの中で少女の存在が、「子供」から「アリエル」という一個人に改められたのは、ようやくこのときであった。

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