琵琶湖決戦編九十七「あかつき峠の決闘その一」
伊勢桑名から北上し近江彦根に到るには、美濃大垣を通
過せねばならないのは、すでに「美濃街道」の章で述べた
が、近江と伊勢を一挙につなぐ道もあった。
それは乗掛峠越えの道である。
現在では三重県と滋賀県を結ぶ国道三〇六号線が整備さ
れ通りやすい道になったが、当時は「胸突き八丁」といわ
れた難所で、伊勢の多度から北西に向かい、鈴鹿山脈の釈
迦岳や竜が岳を左に見ながら登って下れば近江の多賀にい
たる。
多賀からはすぐに彦根である。
孫六の命で今度は直接に彦根にむかうルートをとった。
難所をいかせるのも罰のひとつだそうな。
乗掛峠は別名あかつき峠といわれる。
正英や良之介の足でもきついくらい、この峠はかなりの
厳しい勾配であり、普通の人の足ならば、桑名からは「あ
かつき」のころに出立せねば、峠がきつすぎて、とても昼
間のうちには越えられず、野宿を強いられるということか
ら、「あかつき峠」の異名がつけられたのである。
彦根への再潜入を命じられた井原正英と市来良之介は、
その峠の急な上りになっている蛇行する道を淡々と歩いて
いた。
正英は、己の影から時刻をわりだし、せいぜい午前九時
くらいかと思った。
桑名を二人がでたのは、午前六時。
まさに「あかつき」であった。
昨晩の忠勝、孫六、梶金平との話し合いで、石田三成存
命の噂の真偽定かならず、再度彦根に行くべしとの結論が
でたのだ。
早朝六時の出立ということで話し合い終了後、正英が家
に帰ると、すでにお香は堅田の実家に行くということで立
ち去ったあとだった。
翌朝、雑賀孫六が城下の外まで正英と良之介を見送る。
孫六は、彦根潜入の際の新たな隠れ家を書いた紙を正英
に渡した。
そこには、地図と有田屋一歩十蔵 (いっぽじゅうぞう)と
いう文字があった。
さらに、お前らを取り逃がしたことで井伊家は、かなり
の警戒体制を敷いているであろうから、死ぬ覚悟で彦根に
潜入せよとの厳しい訓示をした。
正英も良之介も、覚悟を決めてのあかつき峠越えである。
あかつき峠は全体に、あまり樹木は多くない。
道はその少ないいくつかの木々の中を縫っていた。
岩が多く、それを伝わって清水が、わずかながら流れ落
ちている。
二人は前屈みになって、道を上り続けた。
直角に近い曲がりくねった道を過ぎると、急に道が広く
なる。
左側が山の急斜面で、右側は崖であり足を滑らせれば、
深い谷が待ち受けている。
二人は、立ちどまった。
崖を背後にして、三つの人影が並んでいるのを見たから
である。
さらに左側の路傍に四人の男が並んでいる。
正英は、後ろを振り返った。
いつの間にか三人の男が上って来ている。
全部で、十人。
全員が腰に長脇差を落し、手には長槍を持っている。
甲賀信楽衆である。
「井原正英か」
路傍の四人の中の一人が前に進み出て野太い声を張り上
げた。
赤ら顔の大男で、明らかに甲賀伝兵衛である。
「甲賀伝兵衛か」
正英は、落ち着いた声で言った。
「そうだ、甲賀伝兵衛だ。もうこれ以上、峠道を歩く必要
はないぞ。涼単寺ではお前らを逃がしたが、今度はここで
死んでもらう」
「死ぬのはどっちか分からぬぞ。弥助さんの仇をとる手間
が省けた。のこのこ出て来てくれて、こちらこそ礼をいう
ぞ」
良之介は伝兵衛に負けぬ啖呵をきった。
「フッ、何とでも言え。お前たちは死ぬのだ」
伝兵衛はさらなる脅し文句を吐いた。
それを聞きながら、
(無益な殺生はしたくない)
と正英は思った。
しかし、甲賀信楽衆も良之介も眼をぎらつかせ、人殺し
をしたくてたまらぬ風情である。
「甲賀衆よ、いつ死んでも良いつまらぬ命だが、多少の手
向かいはさせてもらうぞ」
腹を決めた正英は、そう言うや、崖際の三人に向かって
走り出す。
後ろの三人はその正英を追う。
しかし、正英の行動は己の近くに敵を呼び込むための策
であった。
突如反転すると、背後から迫り来る敵の一人に、電瞬一
撃の抜刀を浴びせる。
抜刀された男は首の皮一枚を残して絶命した。
正英の居合いのすごさに圧倒された残りの二人は、すでに
敵ではなく、腹や胸を裂かれてあっという間に地面に倒れ伏
し動かなくなる。
後方の三人を制した正英は、前方に駆け出す。
崖際の三人が、槍を構えながらむかってくる。
正英は、左側の山の急斜面を一気に駆け上がろうとする。
三人のうちの一番近くの男が、長槍を突き出した。
正英は繰り出される槍をかわし、飛び上がってその槍の柄
のわずかな幅の上に乗る。
己の槍の上で起こった、この世のものとは思えぬ妙技に眼
を剥き驚愕する男の首を気合一閃、横殴りに刎ねた。
すさまじい勢いで首のあった場所から血が噴きあがってい
く。
撒き散らされる血にも構わず、正英は今まさにに殺した男
の槍が地に着く前に、崖肌へと跳んだ。
その着地した瞬間を狙い、他の二人の槍が同時に突き出さ
れる。
斜面に足をつけた正英はその反動を利用し、手毬が弾むが
ごとく、槍の方向に一回転し、二人の男の背後にまわった。
男たちが振り向こうとしたとき、すでに彼らの命はあの世
に飛んでいったのである。
刃の血を払い納刀する音が、地獄への黄泉路を歩き出した、
名も知らぬ男たちへの手向けであった。
以下九十八に続く
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