琵琶湖決戦編九十六「忠勝と孫六と金平と」
正英と良之介は桑名城に、お香は一人で正英の
住居にむかった。
城の近くにある雑賀孫六の家に、二人が立ち寄
り、彦根でのことを話すと、城の二の丸の広間で
待てと指示がある。
三十分ほど広間で座っていると、忠勝と孫六、
それに梶金平がきた。
上座に忠勝が座り、忠勝から一段下がったとこ
ろの左に金平、右に孫六が座った。
正英が孫六に言った話を忠勝に再度しようとし
た瞬間、いつの間にか、正英の横にきた忠勝が、
正英に鉄拳をふるい、正英は吹っ飛ばされた。
「言い訳をするな」
忠勝が正英をしかった。
「殿、正英はまだ口を開いておりませんが」
梶金平が、苦笑しながらいう。
「馬鹿者。顔を見たら、今から言い訳しまーすっ
て、書いてたんだよ。先手だよ、先手。先手を打っ
たのだ・・・・・・おい良之介、お前は腕立て伏
せ千五百回。数えろよ、このこんぺい野郎」
「なんだと。わしゃ、こんぺいじゃない、きんぺ
いじゃ。おい良之介、腕立て伏せはじめーい。よ
ーし、いっかーい」
良之介は腕立て伏せを始め、梶金平が回数を数
えだした。
正英は、忠勝の鉄拳に意識が朦朧となったが、
なんとか元の位置に座り、彦根での件について報
告した。
忠勝は眼をつぶり、じっと正英の言葉に耳を傾
けていたが、弥助の死までを聞いて、眼を開けた。
「あとは、彦根を出たわけだな」
「はい」
「その三成に似た者の死亡は確かめたのか」
「全身血だらけで、眼をカッと見開いたまま動かず、
どう見ても外見的には・・・・・・ただ、実際、体
には触れていません」
「孫六はどう思う」
「何かわざとらしい。あまりに偶然が重なっている
気がします」
「わしも同じだ。正英が庭に入り、動き出したとき
に、三成似の僧が現れ、すぐに殺害される。どうせ
三成は関ヶ原のあと首をはねられ、この僧も死んで
しまった。あーあ、彦根まで無駄足だったなぁ。来
るんじゃなかった。おつかれさーんと思わせたい臭
いがプンプンだ。小細工しすぎて、逆に、三成のや
つ、生きているんじゃないかと、勘繰りたくなった」
「忠勝様、部屋が血の海だったのも、犬の血でもま
けば済むし、その上に寝転んで眼でも剥いておけば、
瞬間的には死んだだように見えますな」
「孫六よ、いうまでもない。そんな小細工を真に受
けて、あわてふためき、人を殺すような馬鹿がいる
んだからな」
正英は、忠勝が己のことをいっていると気づき、
自分の愚かさを自覚し、情けなくなり、涙が溢れ出
した。
「もう、正英、勘弁してくれ。泣いちゃいけん。お
前が正しいかもしれんのだ。なあ、涙をふくのだ」
忠勝が、もっと正英を泣かせようと、残酷にいた
わりの情をしめす。
「そうだぞ正英。お前の努力や優しさを否定しよう
などと思ってはおらぬ。泣くでない。泣くでない」
孫六も正英に、さらに追い討ちをかける。
「ワーッ」
とうとう正英は、声を挙げて泣きだしたのである。
その傍らで、良之介の腕立て伏せの数を数えていた
梶金平が、忠勝に報告する。
「殿」
「どうした」
「良之介、最後に勢いあまって千五百一回になりまし
たが」
「なーにぃ、良之介、本当か」
「はい、思わずもう一回しちゃって」
「仕方ないやつだな。わしの命令にそんなにそむきた
いのか。千五百回とはいったが、千五百一回とはいっ
ておらんな。主君の命に従わぬものは、普通なら切腹
だぞ。しかしお前はまだ若い。わしも鬼ではないから
な。もう千五百回してよね。それで許してあげるから」
忠勝の「優しき命令」を受け、再度、腕立て伏せを
始めた良之介の眼から涙が、ポタリポタリと畳に落ち
ていく。
(涙は心の汗だ)
まったく筋違いのことを考える、梶金平であった。
以下九十七に続く