第二部琵琶湖決戦編九十二「見返りお香」
良之介は、跳躍して正英を追い、手刀で縄を切
ろうとする。
その一瞬、縄が緩められ、正英の首から放れた
縄は投げ主の元に戻っていった。
良之介は、戻っていく縄の方角を見た。
その先にいたのは、意外にも二十歳前後の小娘
であった。
背は一六五センチくらいか、やせてはいるが、
いかにも敏捷そうで、切れ長の眼は整った顔立ち
に、良い意味でアクセントを与えていた。
「お前は、甲賀信楽衆か」
良之介は眼を血走らせて怒鳴った。
昨夜の弥助につづいてのことで、良之介の心根
はまだ収まっていなかった。
小娘が返事をしないうちに、良之介は跳んだ。
飛び蹴りを小娘に食らわせようとしたのだ。
良之介の飛び蹴りがこのやせこけた娘の顔面に
でもあたれば、首と胴体が離れることになったで
あろう。
しかしこの娘は、良之介が飛んだ動きに合わせ
るように、跳躍して、空中で良之介の頭を飛び箱
代わりに使い、良之介の頭に両手を置くと、軽々
と良之介を越え、倒れ伏した正英の背後に降りた。
正英は娘が降りたのを見て、のんびりと土がつ
いた衣服をはたきながら、立ち上がる。
「その小娘に油断めさるな」
良之介の声がひびく。
正英は右手の手の平を大きく前にだし、
「良之介、落ち着け、この娘はわしの許嫁(いい
なずけ)だ」
と意外なことを口にした。
良之介は一瞬、耳を疑った。
ただ正英の背後で小さくなっている小娘の姿に、
敵ではないと確信し、ゆっくり二人に近づいてい
った。
「今、許嫁といいましたよね。二人は結婚を誓い
合っているんですか。じゃなんで、未来の旦那の
首を縄で絞めたり、引きずったりするのですか。
それにどうみても、おっさん狸(正英は一六〇セン
チ八〇キロ)に子狐ですよ。なんでそんなおいしい
目に正英様はあうんですか」
「おまえ、うらやましいのか」
さすがの正英も良之介の失礼な物言いに頭にきて、
大声をだす。
怒られて良之介も言い過ぎたことを正英にわびる。
「英 (ひで)さん、この背の高い男の子、こわい」
と娘がいう。
「お香 (こう)さん、心配しなくていいよ。きのうか
らいろいろあって、気がたっているんだよ。良之介
といってね、いい奴だ。年は今年で二十一」
「あ、じゃ、私がお姉さんだ。良さん、初めまして。
お香っていいます。今年で二十二。よろしくね」
気楽にお香から挨拶され、かえって良之介はとま
どったが、
「いえ、こちらこそ、良之介といいます。失礼なこ
とばっかりいって、申し訳ありませんでした」
とお香に素直にあやまった。
三人は桑名にむかい、歩きだすことになったわけ
だが、その間に良之介が聞いた話は、お香は諸国を
気のむくままにさすらっていて、気がむいたら正英
の家にも行き、何日も滞在したり、すぐに出て行っ
たりするという。
旅の費用は正英からもらうのかと聞くと、スリを
して稼ぐと平気な顔でいう。
スリの世界では、見返りお香と呼ばれ、一目置か
れているそうだ。
故郷は近江堅田(現在の滋賀県大津市堅田)であり、
数年ぶりに実家を訪ねたくなり、その途中正英の家
に寄ろうとして、偶然出くわしたということである。
投げ縄の件は、結構二人になったときは、縄で遊
んでいるということで、
「どういう趣味なんや」
と良之介は突っ込もうとしたが、個人の趣味にあ
れこれいう必要もないかと控えた。
三人で和気藹々 (わきあいあい)と話しながらの道
中は、桑名までの時間を、あっという間の時間とし
た。
あと二キロで桑名の城下町に入るというところで、
良之介が笑いながら顔をあげると、向こうからやっ
てくる七名の者の姿が見えた。
以下九十三に続く
ヨコ書きこの下のネット投票のクリックして一票入れてください。これを書いた努力賃です。