琵琶湖決戦編九一「関ヶ原の夜を走る」
「あぁ」
良之介が、悲しげな声を発した。
弥助の絶命は明らかである。
その弥助のほうに戻ろうとする良之介の腕をつか
み、正英は、
「止まるな。我らが本多家の者とわかったら、本多
と井伊の争いとなる。忠勝様の立場がなくなる」
と必死でさとす。
良之介はそれでも、ともに善良寺で暮らし、竜雲
和尚の武術の門下生として兄弟子にあたる弥助を見
捨てては置けないと、正英に何度もいい、戻ってく
れと懇願する。
正英は、子供のようになった良之介のスキを見て、
点欠(内功をある程度習得した者が使える技で、相
手の経穴(ツボ、穴道)を突いて気の流れを遮断し、
行動を不能にしたりすること。経穴の位置によって
は、止血や体内の毒を外にだせたりもする)し、良
之介を行動不能の状態にすると、そのまま背中に担
いで走りだした。
良之介の弥助への情はわかる。
しかしそれ以上に、本多忠勝への思いが正英には
強いのだ。
忠勝に、そして本多家に迷惑をかけぬためには、
良之介の情を聞き入れる余裕などなかった。
良之介を担ぎ、正英は走りに走った。
井伊家の領地を抜け、関ヶ原に出て、大垣へ。
すでに午前九時。
大垣を抜けたところで、良之介の点欠を解いた。
良之介は、気持ちが落ちついたのか、正英に別に
不満をいわず、それどころか、
「取り乱して、申し訳ありませんでした」
と謝った。
「お前は、涼単寺で回し蹴りを食らわせ失神させた
石黒将監を殺そうかと、俺に冷たくいったな。その
お前が弥助の死には動揺した。敵か味方かで人間は、
優しくも冷たくもなれる。しかし、本来、人はすべ
ての死に愛情をもって接するべきであろう。敵か味
方かで死を考えてはならんと思うが」
正英は、良之介が死を軽く見ているような気がし
て、説教じみたことをいった。
「あの男は石黒将監というんですか。正英様、命の
意味とか愛情なんて考えているから、殺されかけた
んですよ。身に降る火の粉ははらうだけですよ。正
英様の意見として受け止めますが、それ以上のもの
とは考えませんよ」
良之介は、口調は丁寧だが薄笑いを浮かべ、露骨
に正英の意見を軽視するそぶりをみせた。
正英は、命の大切さをこの若い武術家に今教えて
も、聞く耳は持たぬであろうと思った。
自分も良之介と同じくらいの年齢で、林崎甚助か
ら活人剣をいわれ、己の武術の至らなさに気づくま
でに何人の人を斬ったかわからない。
「命のことなど考えるから死に掛けた」
という良之介の言い分も事実である。
生きるとはなにか。
生命とは。
死とは何か。
良之介自身が、己の武術をもって、他者との戦いの
中から、その意味を見出すしかないのかもしれない。
先輩風を吹かす必要もない。
とにかく、忠勝様に彦根潜入失敗の報告をするため
に、桑名に戻るしかないのだ。
無言で二人は歩き続ける。
昼すぎには桑名領に入り、多度柚井を通過しかけた
時、ヒューッと二人の背後で音がした。
若干、先を歩いていた良之介が振り向くと、投げ縄
に首を絞められ、そのまま投げ縄に引かれて、眼を丸
くしながら後方に飛ばされていく、正英の姿があった。
以下九十二に続く