第二部琵琶湖決戦編九〇「人間凶器」
正英は死を覚悟した。
そして死ぬのは悪くないと思った。
すでに正英は幾多の合戦でまた忠勝の護衛役とし
て、何人もの敵と戦い、数え切れないほどの人を殺
してきた。
今から生きても、また何人かの人を殺すだけだ。
そろそろ殺される側に立っても良い時だと考えた
のだ。
石黒将監の刃が上段から下ろされ、まったく無防
備となった正英の脳天を叩き割りかけた瞬間、正英
は石黒将監の顔が左半分なくなり、右半分に偏って
いくのを見た。
控えていた良之介が飛び出してきて、石黒将監の
左ほほに、強烈な飛び回し蹴りを食らわしたのだ。
石黒将監はそのまま斜め後方に吹っ飛び、失神す
る。
「正英様、大丈夫でございますか」
良之介は正英を心配する。
「すまん。弱気になってしまった」
正英は正直に答える。
「今から、どうされますか」
「うん、失敗だ。逃げるぞ」
気を取り直した正英の決断は速かった。
自分たちの行動があからさまになった今、隠密裏
の情報活動ができるはずもなく、彦根にいること自
体、無意味である。
「この男、絞め殺しましょうか」
良之介は.冷酷にいうと 倒れている石黒将監のほ
うに向かう。
「その男の顔は大丈夫か」
「フッ、ちゃんとありますよ」
「なら、よい。そのままにしておけ」
正英は良之介に指示しながら、この若者のすさま
じい蹴りの破壊力が、石黒将監の顔を一瞬消し去っ
たように見せたのかと思うと、良之介の体自体の凶
器性にぞっとするものを感じた。
渡り廊下から庭に下りる三名の人影が見える。
「行こう、良之介」
正英は、塀に向かい動いた。
良之介もあとにつづく。
適当な所で、二人は跳躍し、塀の外に下りた。
寺の外に出た二人は弥助を探す。
二十メートルほど後方に弥助はいた。
「弥助さん、失敗した。逃げるぞ」
正英は弥助に声をかけ、走り出す。
良之介は正英と並走し、二人の後を弥助が追う。
「ドスッ、ドスッ」
正英と良之介の前方の地面に数本の長槍が突き刺
さった。
正英たちに気づいた甲賀信楽衆が放った槍である。
正英は止まらずに抜刀し、前方をふさいだ槍をな
ぎ払い前進した。
そのとき、すぐ後方で、
「ウッ」
とうめき声がし、何かが倒れる音がした。
正英と良之介が走りながら振り向くと、甲賀信楽
衆の長槍に背中を貫かれ、倒れ伏す弥助の姿があっ
た。
以下九一に続く