琵琶湖決戦編八九「井伊家石黒将監」
琵琶湖決戦編八九「井伊家石黒将監」
障子を開けると、八畳ほどの部屋は、一面血の海
であった。
その血の海の中央に、仰向けになり、頭を正英の
方に向け、天井をにらむかのように眼を見開いたま
まの死体があった。
頭か首を切られたのかそのまわりに特に血が多い
死体である。
急ぎ正英は、即死した僧侶の顔をのぞいた。
真っ赤に血で染められた死体だが、顔は血でそう
汚されてはいなかった。
・・・・・・三成・・・・・・石田三成。
その顔はやはり石田三成であった。
生きていたのか。
他人のそら似か。
世の中には似た顔の人間が、三人はいるという話
もある。
正英は、どう判断してよいかわからなかった。
そのとき、渡り廊下側の襖 (ふすま)が開いた。
「おぬしが、殺したのか」
襖を開いた者が、どなるような声で正英を問いた
だした。
すでにその声の主は刀を抜いている。
「拙者は、井伊家侍大将、石黒将監(いしぐろしょ
うげん)。おぬしは何者だ、おぬしが御坊を殺したの
か」
さらに正英を問い詰める。
石黒将監といえば、旧武田家臣団の一人であり、
井伊家の中では剛の者として知られている。
正英は、この状況で言葉を発しても無意味であるこ
とは了解していた。
「いや、その・・・・・・・」
と石黒将監にわざと声をかけ、石黒将監が
「その・・・・・・何だ」
と正英に反応した瞬間、正英はうしろむきざまに庭
へとんだ。
石黒将監は猛然と追いすがろうとしたが、部屋一面
に広がる血の海に足元をすくわれかける。
血はすべりやすいのである。
当然、正英には計算済みであった。
庭に下りた正英は、走りながら、
「ホウッホウッ」
と良之介のいる方角にむかい、ふくろうの鳴きまね
をした。
その時、正英の右前方の闇から一条の白い光が見え
た。
正英は反射的に、その方角にむかい、抜刀した。
一条の白い光は、闇の向こうの敵の抜刀であった。
正英の鞘 (さや)に刀が納まったとき、無言で倒れて
いく敵の姿があった。
即死である。
しまった、石黒将監以外の者がいたのか。
正英は己の腕を恨んだ。
もし真の達人なら、相手の刃先をかわし、当て身を
くらわすこともできようし、もし正英ほどの腕でない
なら、抜刀はせずに逃げたであろう。
いずれにせよ、俺は人を殺したのだ。
正英は悩んだ。
しかし、正英よ、今おのれの腕を嘆くときであろうか。
足音に気づき正英が振り向いたとき、すでに庭に下
りた石黒将監の刃 (やいば)が、正英の頭上に振り下ろ
されていたのである。
以下九〇に続く