琵琶湖決戦編八一「根来山王拳」
良之介は味噌汁の中の焼き茄子を何度も噛んで
味わってから、口を開いた。
「八三五年に空海様がなくなられたあと三〇〇
年ほどは、「美里正拳」は村外にでることもなく、
平穏な日々が過ぎていきました、美里村の方々は
表様の指導の下で高野山のために尽くしたのです。
そういうなかで十二世紀の中ごろ、高野山に空海
様以来の学僧といわれる「覚ばん (かくばん)」上
人 (しょうにん)があらわれます」
襖があき、楠真由美 (くすのき まゆみ)似の仲
居が焼き物をもってきた。
ヤマメや鮎の骨を抜きていねいに焼いていて好
感のもてる作り方であった。
また、もう一種類、丸ごとの柿のなかに栗と生
麩 (なまふ)をいれ柿ごと焼いて赤味噌で食すとい
う凝った焼き物も正英と良之介の舌をうならせた。
「いやー、うまい・・・それで、覚ばん様は高野
山のヤマメをじゃなかった、どうされた」
「はい、覚ばん様は真言宗の学問所を根来の里に
おつくりになり、根来寺は学問の雰囲気にあふれた
寺となったのです。ところが高野山の内部では、覚
ばん様に反対する勢力も現れ、内部対立を嫌った覚
ばん様は単身高野から根来に移られました。その後、
真言宗三大学山の一つ、新義真言宗の根本道場とし
て学問の寺、根来寺は、有名となり全国から学問を
志す多くの僧侶が集まったのです」
「よく高野山は、覚ばん様のわがままをゆるした.
な」
栗と生麩 (なまふ)に赤味噌をつけ食しながら、正
英は首をかしげた。
「その通りで創建時から根来寺は他宗派と争いの
絶えないお寺で、警護のための僧兵の力も必要でし
た。そんな時、美里正拳の七割の技を習得したもの、
つまり美里五人衆のひとりが、覚ばん様のお考えに
共鳴し、美里村を抜け、根来寺の武術師範になった
のです」
良之介がそう言い終わった時、今日の夕餉の中心
となるキノコ鍋を楠真由美似の仲居が運んできた。
二種類のしめじとキノコ各種それに季節の野菜が
バランスよく入っている。
さらにまったけをその場で焼く用意も整えられた。
正英は、ごはんの代わりにきなこ餅を五つ頼んだ。
「良之介どうだ、この養老屋の料理は」
「満足ですよ」
「だろ。しかし、根来寺の僧侶も美里五人衆のひ
とりに指導されるんだから、武闘家としての実力は
相当のものになっただろうな」
「そうですね。それをよこから見て面白くなかっ
たのが、浄土真宗を信じる根来のすぐ近くの雑賀衆
の方々だったのです。今から二百年ほど前、十五世
紀のはじめに、雑賀衆は若者二人を選び、根来寺の
寺男として住み込ませます。それから二十年、この
二人は根来寺の武術の調査研究をし、根来寺を去り
ます」
「良之介、それでは雑賀衆は、根来寺の武術を盗
みに行ったようなものではないか」
「そうなりますね。雑賀衆は根来寺の技を工夫改
良し、雑賀海王拳 (さいがかいおうけん)という独自
の拳法を作ります。しかし、根来の方々は雑賀衆を
許すことができず、雑賀と根来は、血で血を洗う抗
争に突入してしまいます」
正英は、まったけを焼き、軽く醤油をかけて食い
ながらいう。
「それで根来のほうも雑賀に対抗して、根来山王
拳といいだしたんだな・・・ウン、うまい。しかし、
雑賀と根来は隣も同然のちかさだよな・・・よく共
倒れにならなかったな」
良之介が正英の問いに答えようとしたとき、係り
の楠真由美似の仲居が、
「最後の三品です」
と、かぼちゃやにんじんなどの野菜に湯葉をかぶ
せ、カラッと揚げた天ぷらとゆりねとしいたけの茶
碗蒸し、それに良之介にはご飯と香の物、正英には
きなこ餅を持ってきた。
以下八二に続く