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琵琶湖伝  作者: touyou
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第1部関ケ原激闘編8[島津義士伝」

 しかしいつの時代でも、世界内在的で人生超越的

な価値に殉じる者はいる。

 「義侠とは愛着の断念である」と見田宗介氏は喝

破したが、家族への愛着を捨て、愛する人への思い

を断ち切り、友に別れを告げる。

 その果てには死をも辞さない激烈たる倫理性は、

洋の東西を問わず存在し、その倫理に触れた者たち

は、倫理の実践者を敬い、己の日常の怯懦 (きょう

だ)を嘆き、彼らを歴史の中に送り込み、善の典型

と為す。

 詩人佐藤惣之助はその詞「人生劇場」で、

 「やると思えばどこまでやるさ 

  それが男の意気地じゃないか

  義理がすたればこの世は闇だ 

  なまじとめるな夜の雨」

 と書いた。

 この「夜の雨」こそ、世間であり、しがらみであ

り、権力に抗することの愚を説く「大人」なのだ。

 もし勲功の士島津義弘を見殺しにし、義久公の命

にのみ唯々諾々 (いいだくだく)たる輩 (やから)の

みであれば、まさに薩摩は「夜の雨」が降り続く「

闇」の世界であり、その世界の中で薩摩も島津も精

神的死にいたるのみであったろう。

 その闇に光を差し、島津を精神的文化的自決から

救いたる者たちがいたのだ。

 「男の意気地」を持った者たちがいたのである。

 「義弘公のご恩に報いるは今。我死すとも不忠せ

ず」

 と義久公の派兵拒否の姿勢を知った薩摩本国の武

士団の心ある者たちが、義久の命など無視して自然

発生的に動き出したのだ。

 ある者は海路、ある者は陸路で薩摩を出国し、個々

別々に陸続として関ケ原にむかう。

 その数、八百。

 わずか八百と言うなかれ。

 八百.もの義侠の士がいたのである。

 その数やまさに刮目 (かつもく)すべし。

 つまり、島津義弘の関ケ原は、手元の兵二百と忠

義の士八百の、計千名で行われたのである。

 以下九に続く


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