琵琶湖決戦編七八「高野山へ」
「その「九星陰陽経」の写しはどこにあるのだ」
「正英様、あくまで伝承、言い伝えでして、本当
にあるかどうかは不明ですよ」
「良之介、もったいぶるな。言い伝えではどこに
あるのだ」
「紀州高野山 (こうやさん)の麓、美里村に」
「美里拳論会の行われる場所か」
「そうです」
「なぜ、そこに」
正英の疑問に良之介は答えていくのだが、空海様
の業績を事細かに良之介はしゃべりだしたので、正
英が聞きたかった事のみを書くことにする。
空海は、八○四年が終わりかけた時に長安に来た
が、それから一年余りでなんと、密教の真髄に到達
し、唐に来た目的を果たしてしまう。
そこで八○六年は、半年以上にわたり、密教以外
に土木技術や薬学についての造詣を深めることに費
やし、十月には日本に帰朝する。
九州に上陸した空海は、そのまま大宰府(現在の福
岡県太宰府市)に滞在する。実は空海は、二〇年の留
学期間を国より命じられていたのに、二年で切り上
げての帰国。当時の規定では、それは罪にあたると
されていたため、入京の許しを待とうと大宰府にと
どまったのである。
八○九年七月、ついに入京の許しが出て、空海は
京都の高雄山寺 (たかおさんじ 現在の神護寺)に入
った。
それから十年余りを高雄山寺を拠点として過ごす
が、その間八一六年には、修禅の道場として高野山
の下賜を請い、七月八日には、高野山を下賜する旨勅
許を賜る。
八一七年、泰範や実恵ら弟子を派遣して高野山の
開創に着手し、八一八年十一月には、空海自身が勅
許後はじめて高野山にのぼり翌年まで滞在、翌年八
一九年春には七里四方に結界を結び、ついに伽藍建
立に着手、ここに高野山真言宗の基礎が築かれるこ
とになる。
高野山について述べれば、高野山は、和歌山県北
部、周囲を千メートル級の山々に囲まれた、標高約
八百メートルの平坦地に位置する。
現在では百か寺以上の寺院が密集する、日本では他
に例を見ない宗教都市である。
そして京都の東寺(八二三年正月、宮廷より賜った
真言密教の道場)とともに、真言宗の宗祖である弘法
大師空海が宗教活動の拠点とした寺であり、真言密
教の聖地、また、弘法大師信仰の山である。
以下七九に続く