琵琶湖決戦編七六「蘭若寺」
「当然、空海様はその条件をのんだであろうな。長安に行け
るか行けないかの瀬戸際だからな」
「そうです。正英様。ただここで空海様がご幸運であったの
は、日本で十年以上を山の中での修行に明け暮れていたことで
す」
「なるほど、その修行の中で空海様は、自然に常人離れした
体力を有するようになっていたはず。そうでなければ、少林寺
の僧と一二○日以上修行しながら長安を目指すなどできるはず
がない」
「正英様、空海様がさらにご幸運であったのは、いや、日本
の武林(ぶりん 武術界のこと)にとって幸運だったのは、この
蘭若寺 (らんろうじ)の印九星様は南林五虎 (なんりんごこ 南
少林寺の武術を代表する五人)の中で最強を謳われた人だったと
いうことです」
正英は良之介の話を聞きながら、
「アッ」
と小声をだし、歩みを止めた。
良之介も正英に合わせて歩みを止め、
「正英様、いかがなされましたか」
と問うた。
「らんろうじ・・・らん、ろう、じ・・・蘭若寺、思い出した。
中国の伝説に、昔、宮廷に妖怪がはびこり、国を乗っ取ろうとし
たとき、蘭若寺の修行僧、印牛馬 (インウーマ)が信じられないよ
うな内功の技を次々に繰り出し、妖怪を退治したというのがある。
まさかその・・・」
良之介は微笑みながらいう。
「そのまさかです。印牛馬の師匠が印九星様です」
正英は、大きくため息をついた。
「空海様がうらやましい」
それは、武術家井原正英の本音であった。
人は伝説に憧れを抱き、それを物語にするものである。
正英は本多忠勝や戸沢白雲斎というすばらしい師匠にめぐまれ
たのだが、やはり伝説には勝てないのである。
もしこの場に忠勝がいたとしても、やはり、
「空海様がうらやましい」
といったであろう。
正英は、そのまま地面にうつ伏せになり、静かに四肢を伸ばし
た。
そしてその四肢を今度はゆっくり縮めながら起き上がっていく。
まるでカエルが座っているような格好になったとき、正英は動
作を止め、のど仏をカエルが息をするように膨らませた。
以下七七に続く