琵琶湖決戦編七五「空海様と少林寺」
良之介は、話を続けた。
「空海様を乗せた遣唐使船は、八○四年七月六日に
肥前の国松浦郡田浦を出港いたしました。遣唐使船は
何隻かの船に分かれて航行いたしますが、運悪く空海
様のお船は八月十日暴風雨に遭い、沈没なされたので
す。しかし空海様は日ごろの修行のたまものか運よく、
意識不明ではありましたが、福州(現在の福建省)の赤
岸鎮 (せきがんちん)の砂浜に打ち上げられました」
「唐の長安に行くのが遣唐使の目的だから、長安から
見たら、福州は中国大陸の南端と同じだな。よく空海様
は長安に行けたな」
正英は独り言のようにつぶやいた。
「そうですよ。ここに仏縁が生じたのです。砂浜にお坊
さんが打ち上げられたが、まだ意識があると地元の漁
民から聞いた、福州少林寺の僧侶たちが空海様を助け
少林寺に運び、手厚く看護をしてくれたのです。その結
果、空海様は一命を取り止めました」
「良之介・・・しょうりんじ(少林寺)・・・少林寺といえ
ば普通、河南省(北部は黄河の下流域に位置し、省南
部は淮河流域となり、省全体に広大な平野が広がる。
山東半島を中心とする山東省の左隣の省である)嵩山
(すうざん)の少林寺であろう。五世紀末に建立された、
達磨大師ゆかりの禅宗の名刹であり、中国武術の起源
を成すとも言われる寺だな・・・その福州の少林寺は、
河南少林寺から二百年後に造られた南少林寺のことか」
「正英様、ご名答です。その福州の少林寺のほうは、
河南以上に武術家が集まりすぎたために、皇帝の恐怖
の対象として何度も数万の皇帝軍に攻撃され、とうと
う跡形もなく消え去り、今は伝説の少林寺といわれて
おります」
正英は良之介から「ご名答」とほめられ、うれしくな
り、
「いやぁ、俺も忠勝様や戸沢白雲斉様の武術を習っ
た人間だ。それくらいはな」
とアゴに手をやり、満足そうである。
「それで、福州の少林寺の方々に助けられた空海様の
その後は」
正英は眼を輝かせて、良之介に話の続きをせがんだ。
「僧侶たちの献身的な看護と空海様の山で鍛えられ
た体力のおかげで、五日ほどで元気になられます。そ
の後に得意の中国語で長安に仏法を学ぶためにきたこ
とを、少林僧たちに告げますと、寺院内の塔頭の一つ
「蘭若寺 (らんろうじ)」をあずかる住職、印九星(イン
チュウシン) が、長安の青龍寺の住職にして当代密
教の権威、恵果に経典を持っていく予定であることを
教えられます。空海様はこの機会をのがせば一代の不
覚と印九星様のお寺に三日三晩通い、ついに印老師も
根負けしお伴を許可されます。ただし、八月二十日に
出発するが、長安到着は年末になろう。この百二十日
あまりの間、わしの武術の練習相手にならねば、この
話は成立しないと明言されたのです」
以下七六に続く