第二部琵琶湖決戦編七二「美濃街道」
第二部琵琶湖決戦編七二「美濃街道」
美濃の国(現在の岐阜県)に入っていくさまざまな道を
総じて、美濃街道という。
尾張(現在の愛知県)の東海道宮宿と美濃の中山道乗
井宿をつなぐ脇街道のことをいう場合もあれば、越前
(現在の福井県)最大の城下町福井から、東郷・大野・
穴馬谷をへて美濃に向かう街道をいう場合もある。
伊勢の国(現在の三重県)を通る美濃街道は、桑名か
ら長良川沿いに進み、美濃大垣に至る道である。
桑名の七里の渡しから東海道を二〇〇メートルほど
行くと美濃街道と東海道の分岐点を示す道標がある。
その道標に従い右に進めば美濃街道である。桑名か
ら多度へ、多度柚井を抜け美濃へはいり、大垣まで全
行程約四〇キロである。
その大垣から関ヶ原を通って進めば、近江の国彦根
に到着する。
大垣から彦根まで約四〇キロ。
桑名―大垣―彦根の行程は約80キロの道のりであ
る。
今その道のりを歩く二人の男がいる。
井原正英と市来良之介である。
孫六に見送られて桑名城を出発した二人は、難所の
あかつき峠越えは最初から考えていなかった。また鈴
鹿峠を越え、近江水口(滋賀県甲賀市水口町)に入って
いく東海道を通る道もやめ、美濃街道から彦根を目指
す道を選んだ。
理由は、近江水口周辺は甲賀衆の本拠地であるから
だ。
もし石田三成が生きているとすれば、同じ近江とい
うことで、三成は甲賀忍者をかなり重用していただけ
に、わざわざ敵の拠点を通る必要はないのではないか
と、孫六が忠告したのである。
正英と良之介は、孫六の提案を
「大げさな」
と思ったが、あまりに真剣な顔つきで孫六が言うの
で、従ったまでである。
「良之介は大垣に行ったことはあるのか」
「いえ、一度も」
「今日は大垣で泊まろう。養老屋という旅篭 (はた
ご)があってな、ここの山菜料理は抜群にうまいぞ。そ
れに、きなこ餅は絶品だ」
「井原様はお酒のほうは」
「まったく飲めない。体が受け付けないのだ。お前
は」
「寺にいたので、無理に飲もうとは思っていません」
「飲めるが飲まないわけだ。ウン・・・大いに食べ
ような」
正英と良之介は、のんびりと大垣にむかっているよ
うだが、ふたりとも大垣には日暮れまでに着かねばな
らないので、大垣まで休憩をとるつもりはない。
なんせ街灯などない当時のことである。
日が暮れれば、にぎやかな街中は灯りもあろうが、
街道などは月明かりがたよりの旅になるのだ。
午前八時に桑名城を出立した。
十一月上旬の日暮れが午後六時として、十時間で大
垣までの四十キロを歩かねばならぬ。
のんびりとした旅だが、ひたすら歩く旅でもあった。
以下七三に続く