第1部関ケ原激闘編その7「島津四兄弟」
「おいだけ、逃げらるっか。叔父さんはどげするんか」
「わしか。そうやのぉ、死のう思うちょる。ただどう
せ死ぬなら無駄死には嫌やし、先陣きって、あん家康
の金玉びびらしちゃろうかの」
長寿院が相槌をうつ。
「そりゃ面白か。わしゃ52、殿は65。もう、死んでもえ
えっちゃ」
ハハハと義弘と長寿院は高笑いをする。
おまんさぁたちゃ、狂うたんか、ボケたんか」
豊久が怒気をこめて言い放つ。
「今、考えないけんのは、島津の明日ぞ。三成のアホた
れに付きおうて腐れ戦 (いくさ)で、アーン、島津つぶ
さるっか。叔父さんたちは、死なぁよかっち大ボケたれ
ちょるが、こん負け戦で所領没収が見えんのんか。島津
がのうなっち、ええんか」
豊久は自分の思いを素直に吐露した。
それはあふれるばかりの島津への、薩摩への愛であっ
た。
「さっきなぁ、叔父さん死なされん言うたんは、島津ん
ためぞ。いくら家康ん金玉冷やしても抜けんなら、こう
思わるるだけど。島津は当主含めて全滅じゃ、本当に弱
かぁ、薩摩よこさんと攻むっぞち言やぁ、あいつら土下
座して泣いて領地よこして終わりじゃってな。それでよ
かか。島津のうなっち、あんたら嬉しいんか」
豊久は、一呼吸おいて続けた。
「確かに進むも地獄、引くも地獄じゃ。でもなぁ、叔父
さん、あんただけは、生きるべきなんよ」
「生きるべきなのか」
義弘は、長寿院に眼をやりながら、そう言った。
「殿、わしら、ボケだしたかも知れませんな。豊久殿の
言うとおり。殿は、やはり生きるべきお方じゃ。」
長寿院の言葉を聞きながら、義弘はうつむく。
義弘の本心は、己( おのれ)が先頭に立って家康を攻
めることで、敵の攻撃を己に集中させ、そのスキに一人
でも多くの島津兵がこの関ケ原から逃れてくれれば良い
というものであった。
なぜ当主たる己を犠牲にすべきなのか。
それは、この合戦場に集いし者たちが、ただの島津兵
ではなかったからである。
風雲急を告げる関ケ原前夜、京都にいた島津義弘の元
には二百名ほどの兵しかいなかった。
そこで義弘は薩摩本国に五千名ほどの兵の派遣を命じ
た。
島津は六十万石。十九万石ほどの石田三成や三十万石
弱の小西行長が六千名の兵を連れて来ていることを考え
れば、五千名はそう無理な要請ではない。
ところが薩摩を預かっていた前当主の兄義久がその要
請を拒絶したのである。
義久の考えは中立であり、東西どちらにも与 (くみ)
すべからずであった。
いくら当主の座を義弘に譲ったとはいえ島津四兄弟の
長子である義久の威光は、島津藩内に隠然としてあり、
断固、派兵すべしと義久の面前で異を唱えきれる者など
一人もいなかったのである。
島津四兄弟を中国の古典で評すと、「史記」ならば義
久は劉邦、義弘は張良 、歳久は彭越 (ほうえつ)、家久
は韓信であり、三国志ならば義久は魏の曹操、義弘は蜀
の関羽、歳久は魏の荀?(じゅんいく) 、家久は呉の周
瑜であろう。
劉邦や曹操に逆らえる者など、そういるはずが無いの
だ。
以下その八に続く