第二部琵琶湖決戦編63「井原正英の憂鬱」
第二部琵琶湖決戦編63「井原正英の憂鬱」
「父 (とっ)ちゃん、やっぱり寒いよ。まだ午前6時だ
よ。こんな時間に登城しろなんて、忠勝様も滅茶苦茶だ」
「英坊、そんなことこくでねぇ。忠勝様が右といやぁ
右、左といやぁ左。忠勝様に逆らうこたぁなんねぃ。わ
かるな」
「わかるよ。忠勝様は偉いひとだし、おらに幼いころ
から学問や武術の修行をさせてくれたことは、本当に感
謝してるだ。でもなぁ」
「でもなんだ」
「忠勝様は毎日、おらを見ると、いつももっている手槍
(1メートルくらいの短い槍)でおらを刺す真似をするだ。
胸のあたりで寸止めするだが、このごろ年くって体力おち
たのか、寸止めできずに槍の穂先がチクチク刺さって、そ
りゃぁいてぇだ」
「英ちゃん怖かったら、忠勝様に怖いから許してくだせ
ぇって、いうだよ。なんだったら、母ちゃんがお城にいっ
て、忠勝様に英ちゃんいじめんでくだせぇって、言ってや
ろうか」
「母ちゃん、そんなことされたら、おらみんなの笑いも
のだよ。しかたねぇ、忠勝様に会ってくる」
時は1602年11月上旬午前6時、場所は伊勢の国本多家
の城下町桑名。
正確には上記の会話の場所は、桑名の井原正英の家の玄
関である。
会話の主は、井原正英とその養父母。
第一部7話「一言坂と正英と」で述べたが、正英の実父
井原英刀は、1572年の一言坂の戦いで本多忠勝を守る
ために己の身を投げ出し戦死する。
忠勝は英刀の義に報いるため英刀の一子正英を、子供の
いない百姓夫婦に養育させ、暇をみつけては己の武術を正
英に教え、14歳のときから4年間、信州の戸沢白雲斎の下で
修行させ18歳の時、白雲斎の下から呼び戻し、忠勝の護
衛役に任命し、現在に至る。
わずか4歳で父を失い天涯孤独の身となった正英にとっ
て、それから30年、この養父母は、実の父であり、母な
のである。
養父は、神助、養母は、お米という。
根っからの百姓夫婦に育てられた正英は、家での会話は
百姓言葉なのである。
その正英の家に未明、忠勝からの使者があり、至急登城
すべしとのこと。
神助夫婦は急いで正英を起こし、服装を整えさせ、家か
ら送り出したのである。
正英は、まだ夜の明けきらない道を、桑名城に向かい歩
きながら、心は憂鬱であった。
関が原の合戦以後、合戦らしい合戦もなくなった。
本多忠勝も新しい領主となった桑名の城下を整備し、町
と民のために頑張っていたが、40年近くを合戦に生きて
きた忠勝は、合戦中毒症になっていた。
その症状は、「あー、ひまだ、遊びたいよー、人でも殺
したい」と言いながら、常時持っている手槍で、人を突く
真似をするのである。
当然だが、忠勝の技は突く真似とはいえ、すさまじい迫
力であり、常人ではとても対応しきれない。
自然に症状が出たときの相手は、限られてくる。
具体的には、正英である。
毎日毎日、正英は忠勝から寸止めとはいえ、気合の槍を
繰り出され、もう二十回以上、寸止めに失敗した忠勝の槍
の穂先が、わずかであるが、正英の体を傷つけている。
さすがの正英もここ一月ほどは、忠勝の槍に精神的重圧
を感じているのだ。
「でも、忠勝様のおらにしてくれた今までのこと考えたら、
我慢せんとな」
そう心に言い聞かせながらの登城であった。
大手門から城にはいり、使者から言われた、本丸奥の広間
に行き襖をあけると、すでに二人の者が着座していた。
以下64に続く