第1部関ケ原激闘編6「島津 奔る」
「義弘覚悟」
島津義弘の陣幕を開けた者が叫んだ。
義弘も突如の襲来に驚き尻餅をついたが、乱入者
はよく見れば甥の豊久である。
腰から下に付いたドロを払いながら立ち上がり義
弘は言った。
「冗談すぐっど(すぎるよ)、いかなごて(いくら何で
も)。いみしごろじゃ(やんちゃ坊主め)、かんげんね
がんたれが(考え無しのろくでなし)おいは(私は)うん
だもして(びっくりして)しょうべんちびっところぞ(
小便がでそうだった)」
(筆者注)以後、挿入記号をいれるのと訳の煩わしさ
から本格的な薩摩弁での会話は書かないことにします。
島津義弘は十六世紀後半九州を席巻した島津四兄弟
の次男にあたりこの年六十五歳、島津家当主である。
長男は島津家前当主で家康に「将に将足る器」とい
わしめた義久、三男は天下の反骨漢、歳久、そして四
男の家久である。
この家久は事実上の九州覇者決定戦となった一五八
四年の長崎県島原の沖田畷 (おきたなわて)の戦いで、
肥後、筑後、筑前に領土を広げつつあり「肥前の熊」
といわれた竜造寺隆信の三万の軍に対し、わずか三千
で迎撃、大勝利を収めたうえに隆信をも討ち死にさせ
四兄弟中武略第一といわれたが、残念なことに一五八
七年に病死している。
義弘も家久に負けぬ勇猛果敢な武将であり、大友宗
麟軍との耳川の戦い、豊臣軍との戸次川の戦いそして
朝鮮の役での奮戦と武歴には事欠かない。
また甥の豊久は三十歳の荒武者で四男家久の息子で
ある。
十数年前父家久を亡くして以来、豊久は公私にわた
り義弘に師事し義弘も豊久を可愛がっていた。
「豊久殿、場所柄をわきまえられよ」
義弘の重臣、長寿院 盛淳 (ちょうじゅいん もり
あつ)が豊久を諭す。
「すんもはん、」
豊久は素直にわびる。
「豊久さん、どげしたか」
「叔父さん、直政たちが本気で攻めてきちょる。とて
も、もたん」
「そりゃ、今までぬる過ぎじゃからな、当然じゃろ。」
「 本多の者達が三成の笹尾山に向かうのを見ん申し
たが」
「そんなら本多の横っ腹に種子島、撃ちこんじゃれ」
「そんな余裕あら、ここ来ますか。鉄砲もんも相当
死んで本多にまわす暇は、もう無か。そんなこつよ
り、井伊の半端もんら、もうここ来っど。叔父さん
死なされん」
「お前も死なさるっか。」
(筆者注)薩摩弁もどきも限界です。今までの会話を
低音であまり口をあけず やや早口で言うと、私の体
験ではかなり薩摩弁もどきになると思いますが、以
後は標準語もどきで書きます。
「今のうちに、北国街道に出ての退却は」
と長寿院が提案するが、義弘は
「間にあうまい。それに北国街道から逃げて近江を
抜けても敵だらけで海には出れまい。海に出らんと
薩摩には帰れん。第一、敵に後ろを見せて追いつか
れ、死のうもんなら、薩摩もんの末代までの恥じゃ。
しかし豊久ひとりなら別じゃ。ひとりで、コソッと
逃げりゃ、そりゃわからん。どうや豊久。お前はま
だ若い。お前だけでも逃 (にげ)ちくれんか。」
以下その七に続く
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