第1部関ケ原激闘編58「烏丸中将成幹」
直政が守勝に述べたことをまとめれば、
「井伊家があるのは徳川殿のおかげであることを
忘れてはならぬ。家督を継ぐものは代々、御奉公
第一、忠節一筋を心掛けることを申し送るよう務
めろ」
「世継ぎは、嫡男・直継(直勝ともいう)として、
自分が亡くなった時、間髪をおかず家康様にその
旨をとどけよ」
「郷里である遠江井伊谷(いいのや 現在の静岡県
浜松市引佐町井伊谷)に帰れないのは無念であり、
佐和山にも井伊谷と同じ龍潭寺(井伊家の菩提寺)
を建立せよ」
「土葬にせず。死んだその日のうちに火葬にせよ。
骨は、井伊谷と佐和山(彦根)に分骨せよ」
などである。
二月一日、直政が死ぬや、硬骨漢、木俣守勝は重
臣の広瀬将房に直政の遺言の内容を告げ、後の処置
を任せ、己は京都伏見城に滞在している家康の元に、
訃報と世継ぎの承諾を求めるための、馬を飛ばした。
その日のうちに直政の遺体は佐和山城下の程近く
を流れる芹川の中州に運ばれ、嫡男・直継をはじめ
多くの家臣団が見守る中、荼毘に付された。
当時は大名格の武将が死ねば、、家臣の何人かは
殉死することが多かったが、直政の死に追従し、殉
死する家臣は一人もいなかったという。
これは直政クラスの武将の死としては、異例のこ
とで、外にも内にも厳しく、家臣の少しの失敗にも、
刀を抜き時には惨殺する直政の非情の性格が、井伊
家家臣団との精神的距離を大きくしていった結果か
も知れない。
また遺骨は彦根の清涼寺と井伊谷の龍潭寺に分骨
されて葬られた。
同年二月五日、時の関白九条兼孝の使者、烏丸中
将成幹 (なりみき)が隠密裏に家康のもとを訪れた。
その内容は、朝廷工作に苦労した直政の死に「不
吉の兆し」ありとして、源氏長者と征夷大将軍任命
のこと、無期限延期とす、とのことであった。
股肱の臣の死を、延期理由とされたことに、家康
は怒りを覚えたが、揉め事を起こして「従一位」ま
で取り消されることを恐れ、朝廷の言い分を受け入
れることにした。
次の日の夜、家康は、勧修寺晴豊、金地院崇伝、
板倉勝重を伏見城に内密に招いた。
朝廷工作のメンバーの一人、井伊直政の死とその
後の内示の取り消しを受け、今後の対応を練ること
にしたのだ。
以下五十九に続く