琵琶湖伝57「井伊直政の死」
東洋 「秀吉には日本を治める器量がなかったと
いうことですね。信長軍団の一将軍として
生きるべきだったのが、偶然、天下人になっ
たために、日本に不幸をもたらしたという
ことですね…最後に、家康はどうでしょう」
勧修寺「ウーン、勉強家やね。読書好き。特に薬
学と歴史の知識は凄いよ。源氏長者なんて誰
も気づかなかったんやからね。それとほかの
二人より、民の暮らしを根本に全てのことを
考えてるわ。家康はんの考え通りになれば、
日本は平和になるでぇ」
「こういうことで、ええかいな」
東洋 「いやーもう充分です。本日は、ありがと
うございました。勧修寺さんも今年(1601年)
の一月、従一位になられて、本当に、ご昇進
おめでとうございます。朝廷内での発言権も
今まで以上に強くなられましたね」
勧修寺「なんや、まだ質問する気かいな。九条兼
孝はんなど二十年前から従一位やから、新米
の従一位やが、家康はんが、朝廷にご寄付
をされてな、その見返りが、わての従一位。
日本の平和を作るために、わても頑張るで、
そのための従一位昇進や、家康はんの期待に
こたえまっせ」
以上が、勧修寺晴豊へのインタビューである。
家康の朝廷工作のための布石として、勧修寺晴豊は
従一位となり、朝廷内の発言権を強めた。
この勧修寺晴豊をはじめとして、金地院崇伝、板倉
勝重、井伊直政のチーム徳川の努力は、意外と速く成
果を出した。
一六〇二年正月、待ちに待った知らせが家康のもと
に届く。
朝廷は家康の官位昇進を認め、最高位である「従一
位」を授けたのだ。
こうなれば「源氏長者」は手にいれたも同然である。
実際、勧修寺晴豊は家康に、三月には源氏長者と征夷
大将軍に任命するという内示がでたことを告げた。
好事魔多し。
一六〇二年二月一日、井伊直政が近江佐和山に没した。
享年四十二歳。
死因は、関ケ原で島津追撃の最中に受けた鉄砲傷が悪
化し、敗血症になったことといわれ、関ケ原以後の激務
による過労も敗血症誘発の一因と通説では考えられてい
る。
戦国時代の只中に生まれ、駆け抜け、徳川の天下が見
えてきた時に、生涯を閉じた井伊直政。
死を悟った直政は死ぬ前日、病床の枕元に筆頭家老の
木俣守勝を呼び後事について言い残した。
以下五十八に続く