第1部55「聞き書き勧修寺2」
勧修寺「外見は神経質そうやし、実際そうやったかもしれんが、礼儀正
しい人やったで。1578年に、信長はんが突然、右大臣・右近衛大
将の官職を辞任しはったときは、武家伝奏になった次の年で、わ
ても要領得んし、往生こいたわ。それから朝廷の権限の「暦(こよ
み)」にも介入するし、そういう点では、うっとうしい人やったね」
東洋 「本能寺の変は1582年の6月2日早朝ですが、その前の日に信長を
本能寺に訪ねてますよね」
勧修寺「そりゃ、返事を聞きにいったんじゃ。この年の5月に信長はんを「
太政大臣か、関白か、征夷大将軍のいずれかに推任」するため、天
皇・親王の親書を安土に送ったんや。信長はんは即答しはりまへん。
それで、どうでっしゃろて、わてが六月一日になぁ」 .
東洋 「返事の内容は」
勧修寺「死人に口なし。わてがこういうた、ゆぅても、ほんとかいな。証
拠あるんか、ってなるわな。次の日死んでもうたから。朝廷が、光
秀はん、たきつけて、信長はん殺させたなんていう、アホちゃんも
おるしな。返事の内容は、いわんのが、よろし」
東洋 「では勧修寺さんの、本能寺の変への、個人的見解を」
勧修寺「そうやな、信長はん一人で何でもやろうとしすぎた気がするわ。
その結果の悲劇やな。尾張、美濃くらいなら、それで良かったんや
ろが、近畿全域、中国地方、北陸って、領地がこれくらい広がると
なぁ」
東洋 「領地の拡大が信長一人の能力を越えていたとの、お考えですか」
勧修寺「いや、信長の能力は充分に、拡大路線をこなせるものだったよ。
しかし…」
東洋 「何ですか」
勧修寺「そのために、信長が採用したやり方は、誰でもできる、目の前の
数字を重視して、家臣を評価していく、成果主義というものや」
東洋 「全国制覇のために、武将たちにノルマを課して、その成果で各武
将を評価し、新たな仕事を与えたり、昇格や降格を決定しだしたと
いうわけですね」
勧修寺「信長はんは、もともと合理的な人やさかい、このやり方は性分に
も合ってたみたいや。そやから織田家が拡大しても、一人でなんで
もこなせると思うたわけや。その結果、人間を数字で見だしたんや」
東洋 「しかし、全国制覇のためには、のんびり、人間を眺めている余裕
などないでしょう。誰でも数字で見るようになるんじゃないですか」
勧修寺「そやなぁ、当然かもしれん。しかし、その数字からは織田家のた
めに頑張っているのか、自分の欲望と権力欲のために頑張っている
のかの区別は、わからしまへん」
東洋 「あ、なるほど、私利私欲で、金もうけ金もうけで頑張る人間のほ
うが、成果は上がりますね。ただそういう人間は、別に織田家にい
る必要もないし、偶然織田家にいて、金と領地と兵隊をどんどんも
らえて、これはおいしいな、というだけですよね」
勧修寺「信長はんの成果主義の愚かさが最高にでたのが、1580年や」
以下56に続く