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琵琶湖伝  作者: touyou
55/208

第1部関ケ原激闘編54「聞き書き勧修寺1」


 家康が、井伊直政を京都の近く、近江に置いたのは、その武闘

派的側面とともに学問にも秀でていることから、朝廷工作の面も

あった。

 その点で直政は、敵将石田三成の地元を任せられた難しさとあい

まって、二重の忙しさを課せられることになった。

 32節で見てきたように、まずは従一位になることが、家康の朝

廷工作の目標である。

 家康は、公家で武家伝奏職(武家についてのことを天皇や上皇へ

取次ぎする公卿の役職)を勤める勧修寺晴豊 (かじゅうじはるとよ)、

京都南禅寺の僧である金地院崇伝 (こんちいんすうでん)、京都所司

代の板倉勝重、そして井伊直政の4名で朝廷工作の極秘チームを作

らせ、事に当たらせた。

 京都所司代とは、徳川幕府においては、政治の最高議決機関たる

老中に次ぐ役職である。

 京都所司代という名前のイメージからすると、京都の治安や行政の

機関のみの役職に思えるが、京都のみならず、機内の徳川直轄領す

べての裁判権を持ち、さらに京都以西の西国外様大名33国の監視

役でもあり、また禁中(皇室)を守護奉るよいう建前のもとに、皇室

や公家を管理統制する機関であった。

 この強大な権限と組織を統率する長官たる板倉勝重は、1545年三

河に生まれ、36歳まで僧侶として生き、その後、板倉家を継ぐ。

 1586年以後、各奉行職を歴任し1601年3月京都所司代に任命さ

れた。朝廷工作の総責任者ともいえる存在である。

 金地院崇伝は若くから家康に近侍した僧侶であり、家康の下でさ

まざまな書状の作成の仕事をしていた、学識抜群の者である。


 武家伝奏職の勧修寺晴豊だが、1577年より武家伝奏職をずっと勤

めており、信長、秀吉、家康と戦国の三英雄に、朝廷の側から接し

てきた貴重な人物である。

 そこで作者、東洋が以前に、勧修寺晴豊にインタビューをしたこ

とがあるので、その記事を紹介したい。


時間 1601年某月某日 場所 某所


東洋 「勧修寺さん、お忙しいところ、ありがと

   うございます」

勧修寺「いやあんさんに逆らうと、何が起こる

   かわかりまへんからね」

東洋 「そんなことありませんよ」

勧修寺「あんたが、勧修寺晴豊は死んだと書

   いたら、わては死ぬしかありまへんやろ、

   すごぅおます」

東洋 「まあ、そういう創作的なことは、置いと

   いてですね、あなたの一生は戦国時代の生

   き証人。日記を残されてますが、本音をもっと

   語ってほしいのです」

勧修寺「はよぅ聞きなはれ。忙しいんや」

東洋 「それでは、まず信長についてお願いします」

以下55に続く



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