第1部51「雑賀海王拳 鉄胸易筋経」
雑賀衆と根来衆は数百年にわたって、それぞれの流派の武術を競い
合っていて、その武術を通じての交流が深い。
とくに孫六は孫市とともに、雑賀海王拳 (さいがかいおうけん)という雑
賀衆の拳法の奥義を極めており、根来衆からも尊敬を受ける存在で、孫六
の頼みを断る根来の僧侶などいるはずもなかったのだ。
旅を始めて5年後の1590年、甲斐に滞在していた孫六は、孫六の武術
の最大のライバルであった根来寺の竜雲和尚が、上総大多喜の善良寺の住
職になったと聞き、訪ねることにする。
上総大多喜は現在の千葉県大多喜町である。
大多喜町は、千葉県房総半島のほぼ中央に位置し、東西約12キロ、南北約
19キロ、総面積129.84平方キロと千葉県の町村で最も広大な面積を有し、森
林が総面積の約70%を占める緑に包まれた町である。
ちなみに現在の千葉県は古来、総国 (ふさのくに)と呼ばれていた。
そのうち、房総半島の中南部を上総国 (かづさのくに)、北部を下総国(し
もふさ)と言うようになる。また、安房国 (あわのくに)は、現在の千葉県
の南端にあたる。
戦国時代後期、上総と安房は里見氏の支配下にあった。
1590年北条氏滅亡による家康の関東入国にともない、秀吉は里見氏
から上総国を没収し、家康に与えた。
そこで家康は、房総半島のほぼ中央部に位置する大多喜に、その配下の
勇将本多忠勝を十万石で置いた。
忠勝は、里見氏の北上を防止するために、すでにあった大多喜城を三層
四階の天守を持つ近世城郭へと大改築した。
その建設は、これまで戦場を駆け抜けてきた忠勝が得た、知識や経験の
集大成を図ったものであった。
城の見事さは、房総三国一と賞され、関八州でも有数の城郭といわれた。
さらに、忠勝は城のふもとに城下町の建設も行った。民家、商家、市場、
水路、道路などの街づくりに、忠勝は精力的に取り組み、また、了学上人
を、下総小金東漸寺より招き、100石を寄進し、己の菩提寺として良信寺(
現在は良玄寺)まで建立したのである。
1590年11月、その槌音の響きも快い新興の町大多喜に、孫六は到
着する。
大多喜の街中に入ったとき、前から来る3名の武士の一人が、突然、手に
持っていた短槍を孫六の胸めがけて突き出してきた。
孫六はあまりの突き出しの速さに槍をさばききれず、雑賀海王拳 鉄胸
易筋経(さいがかいおうけん てっきょうえききんきょう)の技を使い、体
内の気を全て胸に集め胸を鉄板のようにすることで、敵の槍の攻撃を防い
だ。
以下52に続く