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琵琶湖伝  作者: touyou
52/208

第1部51「雑賀海王拳 鉄胸易筋経」

 雑賀衆と根来衆は数百年にわたって、それぞれの流派の武術を競い

合っていて、その武術を通じての交流が深い。

 とくに孫六は孫市とともに、雑賀海王拳 (さいがかいおうけん)という雑

賀衆の拳法の奥義を極めており、根来衆からも尊敬を受ける存在で、孫六

の頼みを断る根来の僧侶などいるはずもなかったのだ。

 旅を始めて5年後の1590年、甲斐に滞在していた孫六は、孫六の武術

の最大のライバルであった根来寺の竜雲和尚が、上総大多喜の善良寺の住

職になったと聞き、訪ねることにする。

 上総大多喜は現在の千葉県大多喜町である。

 大多喜町は、千葉県房総半島のほぼ中央に位置し、東西約12キロ、南北約

19キロ、総面積129.84平方キロと千葉県の町村で最も広大な面積を有し、森

林が総面積の約70%を占める緑に包まれた町である。

 ちなみに現在の千葉県は古来、総国 (ふさのくに)と呼ばれていた。

 そのうち、房総半島の中南部を上総国 (かづさのくに)、北部を下総国(し

もふさ)と言うようになる。また、安房国 (あわのくに)は、現在の千葉県

の南端にあたる。

 戦国時代後期、上総と安房は里見氏の支配下にあった。

 1590年北条氏滅亡による家康の関東入国にともない、秀吉は里見氏

から上総国を没収し、家康に与えた。

 そこで家康は、房総半島のほぼ中央部に位置する大多喜に、その配下の

勇将本多忠勝を十万石で置いた。

 忠勝は、里見氏の北上を防止するために、すでにあった大多喜城を三層

四階の天守を持つ近世城郭へと大改築した。

 その建設は、これまで戦場を駆け抜けてきた忠勝が得た、知識や経験の

集大成を図ったものであった。

 城の見事さは、房総三国一と賞され、関八州でも有数の城郭といわれた。

 さらに、忠勝は城のふもとに城下町の建設も行った。民家、商家、市場、

水路、道路などの街づくりに、忠勝は精力的に取り組み、また、了学上人

を、下総小金東漸寺より招き、100石を寄進し、己の菩提寺として良信寺(

現在は良玄寺)まで建立したのである。

 1590年11月、その槌音の響きも快い新興の町大多喜に、孫六は到

着する。

 大多喜の街中に入ったとき、前から来る3名の武士の一人が、突然、手に

持っていた短槍を孫六の胸めがけて突き出してきた。

 孫六はあまりの突き出しの速さに槍をさばききれず、雑賀海王拳 鉄胸

易筋経(さいがかいおうけん てっきょうえききんきょう)の技を使い、体

内の気を全て胸に集め胸を鉄板のようにすることで、敵の槍の攻撃を防い

だ。

 以下52に続く


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