第1部関ケ原激闘編50「孫六の別れ」
その他の主だった武将を挙げる。
浅野長政
秀吉の正室おね(北政所)の義弟に当たることから、縁者の少な
かった秀吉に重用された武将。
豊臣秀次
豊臣秀吉の姉の子で、豊臣一門の武将として秀吉から期待され、
この合戦後近江八幡で43万石を与えられた。のちに秀吉の養子
となる。
豊臣秀長
秀吉の弟で、足軽時代から天下人になるまで秀吉を支え続けた名
将。
宇喜多秀家
この年わずか14歳だが、秀吉の養女(前田利家の娘)の豪姫を
正室とし、外様ではあるが、秀吉の一門衆としての扱いを受け、
豊臣氏に対する忠誠心は厚い。備前国岡山城主で、中国山陽道最
強といわれた、宇喜多勢一万を率いての参戦である。
豊臣秀吉
当然、大将であり、説明は不要ですね。
以上のように紀州攻めの秀吉軍の武将たちを紹介したが、まさに
秀吉軍の実力者や一門衆のそろい踏みで、その兵力とあわせ質量と
もに、充分すぎるものがある。
裏返してみれば、ここまでの質と量をそろえねばならないくらい、
雑賀衆や根来衆に秀吉は、脅威を感じていたことになる。
当然だが、この人員で行われた紀州攻めは、秀吉の圧勝であり、
まず根来寺を焼き討ちし、続いて雑賀に対して攻撃が加えられ、雑
賀衆は抵抗したがかなわずに壊滅した。
このあと秀吉は、四国、九州、そして北条攻めと全国制覇の歩を進
める。
近畿を留守にしていく秀吉にとって、紀州攻めは、安心して家を
留守にするために、絶対に必要なものであった。
孫六は、この1585年秀吉の雑賀攻めで雑賀衆が分散してしまった
後、兄孫市と秀吉軍の包囲網からの決死の脱出に成功する。
紀伊を抜け、大和の国に入り、大和郡山まで逃げのびたのち、孫
市は己の路銀の全てを孫六にわたす。
「雑賀がこのような事態になったのは、指導者たる自分の責任が大
きい。今から京都の知り合いの寺を訪ね、どこぞの寺男として生き、
死んだ者たちの供養をしようと考えている。二度と世間には出ない。
お前は、雑賀にこだわらず、好きなように生きよ」
そういうと、孫市は京への道を歩んでいった。
孫市と別れた孫六は、旅をし、その中で自分をみつめ、自分の生
きる道を探したいと考えた。
そこで、全国に僧侶として散らばっている、同じ紀州の根来寺の
武術仲間達を頼りに、諸国を放浪することにしたのである。
以下51に続く