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琵琶湖伝  作者: touyou
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第1部関ケ原激闘編49「秀吉の紀州攻め」

 孫六は、梶金平の問いに、急に夢から覚めたように、

 「関東に来て11年、関東の言葉に慣れたと思うたが、つい雑賀のころに

戻りました」

 といい、笑いだす。

 笑いながらも、孫六の脳裏には、雑賀のよき思い出とともに、孫六が

雑賀を離れることになった、秀吉の紀州攻めの苦い思い出も甦っていた。

 中央集権化を進めて土豪の在地支配を解体しようとする秀吉政権の動

きは、近畿圏の各地域の土豪たちに壊滅的打撃を与える。

 その中で権力者からの独立意識の強かった紀伊の雑賀衆や根来衆(同

じ紀州の根来寺(現和歌山県岩出市にある寺。岩出市は和歌山市の隣に

位置している)の僧侶を中心にした人びとで、雑賀衆同様、鉄砲の達人

集団)は一貫して秀吉政治に反発し続ける。

 1584年秀吉と徳川家康が激突した小牧・長久手の戦い(尾張国が主戦場)

では、雑賀衆は根来衆と組んで手薄となった大阪周辺にまで出兵して秀

吉の背後を脅かし、雑賀、根来衆は近畿圏における秀吉の最大敵対勢力

と認定された。

 秀吉と家康は84年11月に講和、秀吉は冬の間に戦備を整え、85年3月21

日満を持して、近畿の火薬庫、紀伊に攻め入る。

 秀吉が、雑賀衆や根来衆の鉄砲軍団としての実力を評価し、さればこ

そ紀伊の軍団を全滅させなばならないと考えていたかは、この紀州攻め

の秀吉軍団の参加者からわかる。

 わずか4000名前後の紀州勢に対し、秀吉勢は11万。なんと兵力差30倍

弱。この秀吉の動員兵力だけでも、如何に秀吉が紀州勢を恐れていたか

はわかるが、その11万も単に兵を集めたわけではない。

 秀吉軍の陣立てを見てみる。

先陣:中村一氏 

秀吉の古参の家臣で後に東海道の要衝、駿河国駿府14万石を任せ

られる勇将

二備:筒井定次 

大和国の大名、のちに石田三成の家臣として有名になる島左近はもと

もと筒井家の重臣で、この戦いに参加している

三備:堀秀政 

織田信長の側近で信長亡き後、秀吉に与して明智光秀を破った山崎

の戦いでは先陣を務め、柴田勝家を破った賤ヶ岳の戦い(しずがたけ

のたたかい 1583年近江国伊香郡(現:滋賀県伊香郡)の賤ヶ岳附近

で行われた織田勢力を二分する戦いで、秀吉はこの戦いに勝利する

ことによって、織田信長の作り上げた権力と体制の継承者となった)で

は、秀吉軍の最前線を担当し柴田勢の前進を抑えた。秀吉の天下取りの

二大合戦で中心をなした(いくさ)巧者。

高山右近 

有名なキリシタン大名だが堀秀政同様、山崎と賤ヶ岳の戦いで前線を

任せられた猛将でもあった。

細川藤孝 

文武両道の武将で、歌道の秘伝、古今伝授の継承者として当代一流

の文化人。

堀尾吉晴 

20年以上、秀吉と行動をともにしている秀吉古参の家臣で、中村一氏

が駿河国駿府を与えられれば、吉晴は秀吉から遠江国浜松に12万石を

与えられるなど、一氏と同じく秀吉の信頼厚い武将。

 以下50に続く


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