第1部関ケ原激闘編47「天王寺の戦い」
自ら先頭に立った信長は、二千の兵を三段に備え、
住吉口から突入していった。
先手第一段は佐久間信盛・松永久秀・細川藤孝と
若江衆。
なおこのとき、荒木村重は信長から先陣をつとめ
るようにとの命を受けたが、
「我々は木津口の押えを仕る」
といって受けなかった。
このことを後になって信長は、荒木に先をさせず
正解であったと回顧したということである。
続く第二段は滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉・丹
羽長秀・稲葉一鉄・氏家直通・安藤守就が務め、最
後の第三段は馬廻が固めた。
信長自身は先手の足軽に混じって戦場を駆け巡り、
各所に下知をくだして総軍を指揮した。
そのさなか信長は足に鉄砲を受けたが、天道の照
覧あって致命傷には至らなかった。
この戦場において大坂方が織田勢へ一千挺の鉄砲
を放つさまは、降りしきる雨のごとくであったとい
う。
織田勢はその中を懸命に防ぎつつ敵勢を切り崩し、
血路を開いて天王寺砦へ駈け入り、砦衆と一手にな
ることに成功した。
しかし敵は大軍であり、引き揚げることもなく人
数を立て直して攻囲の態勢を固めつつあった。
信長と二千名の兵を見て、明智光秀以下の三千名
の砦の将兵は士気を鼓舞される。信長は、ここで一
気に形勢を逆転すべく、一向宗門徒への総突撃を命
じる。
しかし将たちは味方の無勢を考え、
「合戦は御遠慮なされるが最上」
と口々に諌めたが、信長は、
「か様に間近く寄合わせたるは、天の与うる所であ
る」
といってこれを退けた。
そして軍勢を二段に立て備えると、そのまま城外
へと討って出たのであった。
この信長の勇気ある決断の結果、織田勢は敵を追
い崩しただけでなく大坂本願寺の城戸口まで追撃し、
敵首二千七百余を討ち取ることに成功する。
見事、織田勢の救出と石山勢の撃破に成功したこ
の一戦がのちに、第二の桶狭間と呼ばれるようにな
る、「天王寺の戦い」である。
孫六は鉄砲を構える仕種をし、
「信長覚悟、パーン」
と、鉄砲の発射音を真似る。
「青春の思い出ですか」
正英がいうと、
「青春は、いつの時代にもある。わては今も青春な
んや。大人とは裏切られた青年の姿であると言うた
アホがおるが、わいはいくらでも裏切られたい。夢
があるから裏切られるんや、大いに裏切られんとな」
と、孫六は己の青春論を正英にかました。
そのパンチにやられて、正英が深くうなずくと、
孫六はうれしそうに笑い、そして話を変えた。
以下四十八に続く
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