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琵琶湖伝  作者: touyou
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第1部関ケ原激闘編46「雑賀鉄砲戦記」

 第1部関ケ原激闘編四十六「雑賀鉄砲戦記」

 雑賀孫六の属した雑賀衆は、紀伊半島の一角、現在

の和歌山県和歌山市付近に住んでいた人々の総称であ

る。

 海運の仕事で大きな富を得ていた雑賀衆は、十六世

紀半ば、伝来したばかりの鉄砲を手に入れ、その製造

や使い方に習熟し、鉄砲集団として全国的に一目おか

れるようになる。

 その雑賀衆の実力を天下に見せつけたのが、一五七

六年の天王寺の戦いである。

 以下、信長側近の大田牛一が記した「信長公記」の

記述を参考に、天王寺の戦いを述べてみることにする。

 信長にとって最大の敵対勢力である一向宗の総本山

大阪石山本願寺に対し、信長は一五七六年四月、明智

光秀や荒木村重(摂津国主)、原田直政 (山城と大和両

国の支配を信長から任せられ、当時は秀吉、光秀と同

格)らの軍勢を派遣。

 信長勢は、石山本願寺の周囲に砦を築き、包囲戦を

図ろうとした。

 ところが、石山本願寺への海上からの輸送拠点とな

る木津口は、本願寺勢が押さえたため、完全に包囲し、

糧食を絶つにいたらない状況であった。

 そこで五月三日早朝、織田軍は、先陣に三好康長と

根来衆・和泉衆、二段に原田直政率いる大和衆・山城

衆という陣容をもって木津口へ攻め寄せた。

 しかしながら、この攻撃は本願寺勢の知るところと

なり、二万近い兵で待ち伏せ、織田軍の殲滅を企図、

虎の子の雑賀鉄砲衆千名にも出動の命令が下る。

 雑賀鉄砲衆の火力の威力はすさまじく、織田軍は散々

に撃ち立てられ、先陣はすぐさま崩壊。

 これを二段目の原田直政の軍が危ういところで支え、

敵勢と数刻に渡って激戦を繰り広げた。が、やがて敵

の猛勢に原田軍は取りこめられるに至る。

 ここに原田直政をはじめとして塙喜三郎・塙小七郎・

蓑浦無右衛門・丹羽小四郎といった士が一同に枕を並

べて討死、織田軍は二千人以上の戦死者を出したとい

われている。

 勝ちに乗じた本願寺勢は一万五千の兵で天王寺砦ま

で押し寄せ、立て籠もる佐久間信栄・明智光秀・猪子

兵介ら約三千の守勢を囲んでひた押しに攻め立てるが、

そこは織田家の勇士、数度の攻撃を撃退する。

 これに対して、五月四日京都で天王寺砦の苦境を知っ

た信長は、急ぎ兵を集結すべく陣ぶれをだし、信長自

らは軍勢の参着を待たずして五月五日、後詰に出馬し

た。

 手元にいたわずかな馬廻り二百名を連れての出立で

ある。

 五月六日河内の若江城(現在の大阪府東大阪市若江)

で兵の集まるを待つも、各武将は到着するが、足軽な

どが依然間に合わず。

 五月七日には、

 「これ以上待てず」

 と、わずか二千人ほどで、天王寺砦を包囲する本願

寺勢に奇襲をかける。

 以下四十七に続く


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