第1部36「信幸と小松の未来」
関ケ原合戦の戦後処理で、石田三成に加担した武将
たちへの処罰はさまざまで、三成のように所領没収の
上、打ち首になるものもいれば、立花宗茂のように所
領没収で済むもの、島津家のように2年越しの交渉で
本領安堵になるものもいた。
では信州真田家はどうか。
八十五年の上田合戦と今度の関ケ原戦での中仙道を
進む徳川秀忠軍への妨害行為。
その好戦的な真田の資質に家康は危険性を感じた。
わずか二千名ほどの兵力の大名なら、政治的な駆け
引きで、己の家の生き残りを図ろうとするもの。
それが徳川に二度も逆らい、己が武勇を自慢するな
ど、木を見て森を見ない、その視野の狭さ、戦略眼の
なさ、血に飢えた殺人鬼の所業にも似たりとしか、家
康には思えなかった。
信州の真田は所領没収の上、昌幸と幸村父子には自
害させるしかない…それが家康の信州真田への結論で
あった。
一方、本多忠勝は信州真田をどう見ていたか。
当然、家康と同じ結論である。
合戦自体を目的とする合戦など愚の愚であり、戦争
は外交の最終手段であって、それ以外の何者でもない。
真田父子の行動は、忠勝からみても「病気」にしか
みえないものであった。
しかし我が愛する娘、小松の夫が真田一族の嫡男信
幸であるという事実はどうであろうか。
昌幸と幸村が自害したとしても家康に味方した信幸
に害は及ぶまい。
されど父と弟を見殺しにして己だけ生き残ったとい
う謗りはまぬがれまい。
いや、信幸自身そこまでして生きようなどと思う人
間ではない。
場合によっては信幸も自害するかもしれない。
そうなれば、小松は・・・・・・。
信幸と小松の未来のための方策を忠勝は考えた。
要は昌幸と幸村の罪を減じさせればよい。
その命乞いをわしと信幸でするのだ、命がけで。
1600年9月26日の夜に出発した雑賀孫六は(三
十三参照)その三日後沼田に着く。
十月三日の夜には、小松姫を伴った真田信幸の姿が
京の本多忠勝の屋敷にあった。
その広間で久しぶりに再会した小松姫が、忠勝にむ
かい杯を持つ指の形をとりながら、酔ったように千鳥
足で歩き出し、酔拳の技、月牙叉手(げつがさいしゅ
杯を持つ指の形を作り、その中指の第二関節で相手の
ノドを突き同時に親指と人差し指でノドボトケをつか
み破砕するという恐ろしい技)を繰り出してきたのに
は驚かされたが、護衛役の井原正英が即座に応じ、月
牙叉手を掌法(しょうほう 内力をこめた攻撃方法で
指を広げた状態で闘う)で受け、手刀で攻めれば、小
松姫は体をかわしながら庭に下りる。
正英も姫を追い庭に出る。
「正英、久しぶりにやるか」
「おう、姫とて遠慮はいたしませぬぞ」
アチョー、ウリャー、ウグッ、イターイ、
許してくだされ、許さないわよ、
アチョアチョ、アチョー……。
月光に照らされ、習得した秘技の全てを出し合う二
人の乱取りは、次の日の朝まで終わらなかったという。
以下三十七に続く