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琵琶湖伝  作者: touyou
32/208

第1部関ケ原激闘編31「朝廷の密使」

 家康は、十六日十七日を佐和山の近くで過ごし、佐和

山城落城後、十八日近江の草津に本陣を移動した。

 草津(現滋賀県草津市)は当時は交通の要衝であり、中

仙道と東海道はこの近江の草津で合流し京都まで向かう。

 ちなみに東海道に比べ、今ではなじみのない中仙道に

ついて言えば,江戸日本橋から大宮,高崎を経て碓氷峠

を越えて信濃に入り,追分から塩尻に出,木曽を通って

美濃に入り近江の草津で東海道と合流し京都に至る、全

六十七宿の街道のことである。

 草津に話を戻すと現滋賀県草津市の隣の町が大津市で

あり、次はもう京都市になるのだから、往時とはいえ草

津は大津城のすぐ近くである。

 立花宗茂が家康の降伏勧告に従い大津城を退去し九州

に戻るのは、九月二十日であり、それまでの待ち時間が

草津着陣ということになる。

 その待ち時間に家康は予想外の客人にあう。

 朝廷の使者が来訪したのだ。

 朝廷の使者は、二人であり、家康に会うや

「そなたが家康はんか、われは烏丸中将成幹 (なりみき)

でおじゃる。こちらは勧修寺光豊はん。よろしゅうに」

 と烏丸中将成幹と名乗る公家は、気楽な物言いで自分

と勧修寺の紹介をし、続けて天皇の詔を告げた。

「このーたびぃ、すうーまーんのきょーとー、うつはー

ここんみーぞーう、なんじぃ、まつりごとしぃぃ、てん

かーを、たーいーへいにー、すーべしぃ」(このたび数

万の兇徒討つは古今未曾有、なんじ(まつりごと)をし、

天下を泰平にすべし) 」

 烏丸中将は、ふしを付けて読むので、聞いている家康

はとまどったが、大意はなんとか分かった。

 武家としての政治責任者になり、乱れた世を平和にせ

よと言っているのだ。

 武家としての政治責任者とは征夷大将軍である。

 征夷大将軍にならぬかという、天皇からの要請書をこ

の公家たちはもってきたのだ。

 家康は、

「ありがたき仰せ、臣 (しん)源 (みなもと)家康、心よ

り承りました」

 と言いかけて、その言葉が口より出るのを、必死でこ

らえた。

「これは罠だ」

 傍らの忠勝が眼で語っているのを感じたのだ。

 そして家康も直感した。

「罠がはられた」

 と。

 以下三十二に続く


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