第1部関ケ原激闘編31「朝廷の密使」
家康は、十六日十七日を佐和山の近くで過ごし、佐和
山城落城後、十八日近江の草津に本陣を移動した。
草津(現滋賀県草津市)は当時は交通の要衝であり、中
仙道と東海道はこの近江の草津で合流し京都まで向かう。
ちなみに東海道に比べ、今ではなじみのない中仙道に
ついて言えば,江戸日本橋から大宮,高崎を経て碓氷峠
を越えて信濃に入り,追分から塩尻に出,木曽を通って
美濃に入り近江の草津で東海道と合流し京都に至る、全
六十七宿の街道のことである。
草津に話を戻すと現滋賀県草津市の隣の町が大津市で
あり、次はもう京都市になるのだから、往時とはいえ草
津は大津城のすぐ近くである。
立花宗茂が家康の降伏勧告に従い大津城を退去し九州
に戻るのは、九月二十日であり、それまでの待ち時間が
草津着陣ということになる。
その待ち時間に家康は予想外の客人にあう。
朝廷の使者が来訪したのだ。
朝廷の使者は、二人であり、家康に会うや
「そなたが家康はんか、われは烏丸中将成幹 (なりみき)
でおじゃる。こちらは勧修寺光豊はん。よろしゅうに」
と烏丸中将成幹と名乗る公家は、気楽な物言いで自分
と勧修寺の紹介をし、続けて天皇の詔を告げた。
「このーたびぃ、すうーまーんのきょーとー、うつはー
ここんみーぞーう、なんじぃ、まつりごとしぃぃ、てん
かーを、たーいーへいにー、すーべしぃ」(このたび数
万の兇徒討つは古今未曾有、なんじ政をし、
天下を泰平にすべし) 」
烏丸中将は、ふしを付けて読むので、聞いている家康
はとまどったが、大意はなんとか分かった。
武家としての政治責任者になり、乱れた世を平和にせ
よと言っているのだ。
武家としての政治責任者とは征夷大将軍である。
征夷大将軍にならぬかという、天皇からの要請書をこ
の公家たちはもってきたのだ。
家康は、
「ありがたき仰せ、臣 (しん)源 (みなもと)家康、心よ
り承りました」
と言いかけて、その言葉が口より出るのを、必死でこ
らえた。
「これは罠だ」
傍らの忠勝が眼で語っているのを感じたのだ。
そして家康も直感した。
「罠がはられた」
と。
以下三十二に続く