第1部関ケ原激闘編30「大阪への道」
九月十六日の早朝、井伊直政指揮下の佐和山城攻
めの部隊が出立、続いて松平忠吉が武蔵の忍城に戻っ
ていった。
家康が傷の治療をせよと帰したのである。
忠吉の部隊が去るのを見送りながら、家康は忠勝
に言う。
「もう一人の息子は、今どこをほっつき歩いておる
のか」
「そういえば、お宅の息子さんのところに、わが文
弱の息子もお邪魔しておりますが、いったいみんな、
どこで遊んでいるのか」
家康は、江戸から西へ向かう三成討伐軍を二手に
分け、自身は海沿いの東海道を進み、己の後継者た
る秀忠には、山沿いの信州を通過して近江にはいる
中仙道を進ませた。
秀忠の部隊は三万七千であり、戦局を充分に変え
るだけの兵力である。
参謀も榊原康政、本多正信といった徳川家の重鎮
を揃え、家康本隊に匹敵する部隊であった。
その部隊の中には本多忠勝の嫡男、忠政も大多喜
勢三千を連れ参加していた。
忠政も勇士であるが忠勝から見れば、文弱なので
ある。
さらに言うなら、この秀忠軍には、忠勝の娘婿で
ある上野沼田城主真田信幸も加わっていた。
「ウーン、一応、戦勝の知らせの使者は、中仙道に
何人も送ったから、どこかで秀忠に会うだろうが」
家康は心配げにいう。
「殿も、極力、徳川の兵を損なわぬ配慮から、二手
に分けたのでござるから、ご案じめさるな。行軍の
調整は、康政や正信がうまくやっておるはず」
忠勝が雲から顔を出した太陽を見ながらいうと、
「いや、遅れてもいいのだが、あまり遅れすぎると、
わしに味方してくれた武将たちに悪いしなぁ。それ
に、秀忠自身が、周りから軽く見られるのも、将来
の徳川家のためにはならんだろ」
「心配はござらぬ。あんたが死なんやったら、すむ
こと。当分、死ぬなよ家康」
「おまえなぁ、わしに、あんたは、ないだろ」
「ハハハハッ、大殿、申し訳ござらぬ。そろそろ我
らも出発しましょうぞ」
忠勝の催促に、家康も同意する。
関ケ原を出た家康の最終目的地は大阪城である。
なぜなら、きのうの合戦は形式的には、豊臣家の
大老として、平和を乱した石田三成とその同盟者た
ちを征伐したことになるからだ。
大阪城にいる幼き豊臣秀頼に征伐の報告をせねば、
関ケ原の形式性は完結しないことになる。
しかしその完結には若干の時間を要する。
大阪までの通過点の大津城には、反徳川の立花宗
茂が籠城し、肝心の大阪城には、西軍の総大将に三
成から祭り上げられた、中国地方を支配する毛利輝
元が居座っていたのである。
以下三十一に続く