第1部関ケ原激闘編29「父の思い」
一六〇〇年九月十五日午後四時、関ケ原の合戦は、
徳川家康とその同盟者たちの、勝利のうちに終了し
た。
石田三成、宇喜多秀家、小西行長など反家康軍の
主な武将たちは戦場から逃走、家康は捕縛命令を出
し、その後、本陣を藤川台に移動させた。
藤川台には、反家康軍の一人で、この合戦で戦死
した大谷吉継の陣があったが、そこに吉継は小屋を
建てていた。
それを知って今夜はそこで夜露をしのぐことに、
家康は決めたのだ。
当然だが、その小屋で、戦勝を祝う同盟者たちの
訪問を、忠勝とともに迎え、一人一人に、ねぎらい
の言葉を家康はかけていった。
その訪問客も終わりになったころに井伊直政が松
平忠吉を連れて現れた。
島津兵に右肩を撃たれた忠吉だが浅手らしく元気
そうである。
逆に直政は左腿 (もも)の負傷であったはずなの
に、落馬の痛みもあるのか、顔から脚まで全身を包
帯で包み、眼と口だけが見える、といった姿で、脚
を引きずり家康の前に出る。
家康もさすがに驚き、
「直政、無理をするでない」
と声をかけると
「大殿、申し訳ございません。かわいい我が婿にし
て、大殿のご子息、忠吉殿を負傷させ、さらに島津
を取り逃がした大失態、この罪をつぐなうには、さ
らにひと働き必要。ぜひ明日の佐和山城(近江佐和山
城(石田三成の居城で三成の一族が守っていた。逃走
中の三成は城に戻ることはなかった)、現在の滋賀県
彦根市)攻めの総指揮官をこの直政にお命じくだされ」
眼をぎらつかせミイラ状態でいう直政の迫力に家康
は思わず同意する。
「されば、武将の方々に今より声をかけ、明日の打ち
合わせあれば、御免」
とスタスタと普通に歩いて、直政は帰っていった。
「やーくしゃやのう(役者やのう)」
忠勝が、なじったが、直政は完全無視で消えていっ
た。
あとに残ったのは松平忠吉である。
「父上、今日の大勝利、祝着至極に存じます」
忠吉は儀礼的な言葉を述べたが、家康は応えない。
忠吉はその沈黙に耐え切れず、
「父上、さすがにお疲れでございますか。ならば失礼」
とその場を去ろうとすると、家康が口を開いた。
「忠吉、おぬしは何か言い忘れてないか」
今度は忠吉が沈黙する。
「忠勝、わかるか」
家康が忠勝に振る。
「分かりますぞ」
忠勝が忠吉を見ながら答える。
「忠勝、一体何なのだ」
忠吉は思わず忠勝に問うた。
その時、
「お前は誰の子供だ」
家康が静かに言った。
「はっ…」
「 お前はこの家康の子供なのだ」
「・・・・・・」
「今年で21歳のお前が武蔵の忍城の城主として10万石
の知行を与えられているのはなぜか。この忠勝と知行
が変わらぬのはなぜか。考えてみるのだ。」
忠吉はうなだれながら、家康の言葉に聞き入る。
「わしはこの日本国に、千年の平和をもたらしたい。
そのためには、わしの跡を継ぐ者たちにわし以上に、
日本を思い、そこで暮らす人々の安寧を思ってもらい
たいのだ。わしは跡継ぎを秀忠に決めた。そしてお前
は秀忠の弟だ。秀忠を支えるのが、お前の仕事ぞ。そ
のための修業として10万石があるのだ。平時には民を
思い、戦時には兵を動かさねばならぬのだ」
家康は、一言一言かみしめるようにいった。
「父上、兵を統率するという己の分を忘れ、匹夫の勇
に走り、合戦の大局を見誤り、島津の策にはまり、我
を守ろうとする何人もの家臣を死なせたことを、申し
訳なく」
忠吉は、あふれる涙でそれ以上、言葉が続かなくなっ
た。
「分かってくれたか。その言葉を待っていたのだ。お
前は生まれながらに、将来の幸福が約束された人間だ。
だからこそ、己の才能を民のため、家臣のために捧げ
ようと思うのだぞ。ウン、分かったらそれでよい。父
に肩の傷を見せよ、薬を塗ってやろう」
本当は子供の傷をすぐにでも、いたわりたかったで
あろう家康が、子の将来を憂い、日本の未来を案じ、
心を鬼にして忠吉を説教した。
その思いが、傍らの本多忠勝にも伝わり、忠勝の眼
からも、涙がこぼれ落ちていくのであった。
以下三十に続く