江湖闘魂完結編一九九「決戦の地 伊吹山万栄寺」
第三部江湖闘魂完結編一九九「決戦の地 伊吹山万栄寺」
高島青影神社を出て大津瀬田を目指せば、その右手には朝は
遠くに見た伊吹山が高島から長浜を経て彦根につゞく平野の彼
方に天を衝いて盛り上つているのが見える。
正英はこれからの己が戦うべき地である彦根を見やりながら、
午前の湖水を高島に行ったときとは違う趣を抱いていた。
家康の築城命令で、井伊直政亡き後の彦根藩の大黒柱たる木
俣守勝が指揮して、彦根山に建設中の新しき城の外観が朦朧と
した輪廓を見せて来た。
その少し左の方に彦根城完成とともに取り壊される佐和山の
城も見えている。
午前に倍して湖の上が一層和やかで、平滑な水の面は油を流
したやうにのんびりとして沖の方はたゞ縹渺と白く煙つている。
伊吹山の向こうには関ヶ原があり、二年前の関ヶ原の合戦で
西軍の総大将として落ち延びた石田三成が潜み、捕縛されたの
が伊吹山であった。その伊吹山から京都に連行された三成は、
他人を身代わりとして斬首を装い、彦根藩の旧武田家家臣団に
匿われ、今も彦根涼単寺の僧として生きている。
征夷大将軍宣下に京に上がる家康様が彦根を通る前に(第百四
十二話参照)、三成や彦根藩の悪臣どもと決戦をせねばならぬの
だという現実を突きつけられた思いから、正英は武者震いをした。
傍らでやはり湖畔の遠影を見ていたお香が、
「正英、あわてるなよ。俺がいるからな」
と男言葉でしゃっべたのに正英は驚いたのか、眼を剥いてお香
のほうに顔をやった。
お香は笑いながら、
「英さん緊張しすぎ。まだ瀬田にも着いてないんだよ。とにかく
瀬田に着いて良之介さんに会って、それから彦根に一緒に行くの。
気を張るには速すぎる」
と正英のはやる心を抑えた。
正英も苦笑いをしながら、
「ウン」
と軽く頷いた。
良之介が待つ「かいなん」は大津における桑名藩お耳役の隠れ
宿だが、「かいなん」のある瀬田は、琵琶湖から注ぎ出る川が瀬
田川しかないことから、京都防衛上の重要地であった。
とくに大津瀬田の瀬田川にかかる全長二百六十メートルの橋は、
瀬田の唐橋 (せたのからはし)といわれ、古来より「唐橋を制す
る者は天下を制す」と言われた。 八世紀の壬申の乱の際には大
友皇子と大海人皇子の決戦場となり、 他にも恵美押勝の乱(藤
原仲麻呂の乱)などで幾度も戦場となり、破壊と再建を繰り返し
た。 藤原秀郷の大ムカデ退治伝説の舞台としても知られている。
江戸時代には東海道もここを通った。
十一月十七日午後三時、瀬田の桟橋に着いた正英とお香は上陸
し、岡本邦源ら堅田湖族衆はそのまま丸子船で堅田に戻っていっ
た。
桟橋から数百メートル歩いていくと人気のない湖岸にポツリと
漁師小屋のような寂びれた建物があり、その横を通りすぎたとき
入り口の板戸があいて、一歩十蔵が出てこなければ、舟宿「かい
なん」とは、正英もお香もとても気づかなかっただろう。
「お久しぶりだ。まだ生きていたのか」
十蔵がお香と正英に声をかけた。
突如現れた十蔵に二人はとまどったが、眉毛が下がっていて、
笑っているような顔の十蔵に接して二人はなんとなく落ち着くの
を感じた。
「生きてましたよ十蔵さん」
お香が応える。
正英は、
「何故に十蔵様がここに。良之介もいますよね」
と問うた。
「良之介はおらぬが、その代わり俺がいるのだ。まぁ中に入れ。
事情を話そう。ここに長居はできんがな」
十蔵はそう言いながらもう建物の中に姿を消し、お香と正英も
続いた。
土間を上がると板間で、中央の囲炉裏の周りに三人は座った。
七十ほどの老人がいて、三人に茶を出した。
「この爺様は定吉さんといってな、この舟宿の主だ」
十蔵が紹介をして、お香と正英は会釈をした。
定吉はそのまま入り口の方に行って、土間の上がり口に座った。
「ここは宿ですか。漁師小屋の間違いでは」
正英が小声でそう言うと、十蔵が笑いながら、
「この板間に寝ようと思ったら寝れるだろ。たがら宿屋だ」
と理屈を言った。
「そんなことより信長様の遺書はあったのか。良之介からそのこ
とは聞いている」
若干、十蔵が眉間にしわを寄せて孫六の依頼の件をお香にただ
した。
お香は平然として、堅田に戻ったのですが無駄足でしたとウソ
をつく。
正英も、その通りと言いたげに十蔵の顔を見た。
「やはりないのか」
十蔵は残念そうに嘆息した。
「でも何故に、十蔵さんがここにいらっしゃるのですか。良之介
さんはどこに行かれたのですか」
お香は珍しく丁寧な物言いで急ぎ話題を換える。
「良之介は万栄寺 (まんえいじ)の背後の山林に身を伏せ、孫六
様とともに寺の見張りをしている。お前たちも今から俺と一緒に
万栄寺に行くことになる」
「万栄寺とは、伊吹山中にある古刹のことですか」
正英が十蔵の答えをさえぎるかのように言う。
「そうだ。石田三成は伊吹山の洞窟に潜んでいるところを捕縛さ
れたが、その洞窟の近くにある寺だ。彦根藩謀反の生き証人石田
三成がそこにいる。三成さえ確保できれば、家康様上洛の道筋を
変える正当な理由が出来る。彦根を通ることはない」
「ならば、忠勝様に出馬を仰いで本多家武士団で万栄寺を急襲す
れば」
正英がさらに問う。
「大勢の武士団を問題なく彦根領内に潜入させる時間がないのだ。
お前たちは家康様の旅程表を知らなかったようだが、すでに松平
忠吉様の尾張名古屋城を出て、大垣城に到着されているころだ。
明日は彦根に向かう。その前に、明日の明け方までに我らのみで
万栄寺を襲う。俺はお前らの案内役としてこの場にいるのだ」
十蔵はわずかだが声をひそめた。
「十蔵さん、急を要する事態が起こっていることは分かったけど、
彦根涼単寺にいるはずの三成様が万栄寺にいるのは、どうしてな
の」
お香は素朴な疑問を十蔵に投げた。
以下二〇〇に続く。