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琵琶湖伝  作者: touyou
202/208

第三部江湖闘魂完結編一九八「信長の遺書の死」

   第三部江湖闘魂完結編一九八「信長の遺書の死」


「鬼道が終わったあとで、鏡に出現した僧侶は何者でしょ

うか」

 浪路が、怪訝そうな顔で話題を変えた。

 邦源が、

「根来寺、美里村の風景とくれば思い当たるのはただ一人

だが」

 と言うと、太田も、

「最後の善良寺がひっかるが、わしも一人浮かぶ、竜雲と

いう僧だ。」

 と言った。

「上総大多喜の善良寺の住職が竜雲という名前でした。な

んでも武道の達人とか」

 正英がつないだ。

 太田が不安げな顔でつぶやいた。

「もし、十二年前に美里拳論会で優勝した竜雲和尚が、今

この琵琶湖近辺に来ていて、敵方についているなら、相当

にやっかいなことになるが」

「太田様の推測に間違いはないでしょう。あやつはまだ四

十前後の年。この六十に近い邦源では、相討ち覚悟でやら

ねば勝負にならぬかも」

 太田と邦源が話し合うのを聞いていて、お香が不服そう

に言った。

「太田様も父上も、私と英さんの力を忘れてるよ。大丈夫。

もし出会ったら、絶対にやっつける」

「竜雲の顔をお前たちは知らないであろう」

 邦源が言うと、

「英さんが知ってるよね」

 お香が正英に言葉を向けた。

「善良寺には忠勝様のお供で何度か行きましたが、直接に

は会ったことがありません。ただ良之介は竜雲様の弟子で

したから、良之介がいれば分かるでしょう」

「その良之介とは、堅田から彦根にお前たちを潜入させた

ときに一緒にいた、背の高い若者か」

「その通り。父さんも会ってるね」

「竜雲の密偵ではないのか」

 邦源が良之介の出身に疑いの眼を向けた。

「それは絶対にありえません」

 正英が若干大きな声で邦源の考えを否定した。

「もう父さん、考えすぎ。良之介は力が強いだけの単細胞

よ。密偵できるほど複雑な頭は持ってない」

「そうか、それならよいが。お香、竜雲はそれは恐ろしい

男だ。琵琶湖激誘波もまだ会得していないお前では心もと

ない。出会ったら無理はするな。できるなら、逃げてくれ」

 邦源が、お香の攻撃的な性格を心配した。

「それほどに強いので」

 正英が邦源に問う。

「強い。恐らく今の日本で、竜雲に拮抗できるのは、雑賀

孫六以外にはいまい」

 お香と正英は顔を見合わせたあとで、声を立てて笑い出

した。

「父上、私たちは雑賀孫六様の命で動いているのです。な

らば全く心配はいらない。もし竜雲と会ったら、雑賀様と

一緒でなければ戦わないことにするから、それでいいね」

 お香の言に、邦源は、

「分かった」

 と言ったが、やはり心配そうな顔をしていた。


 境内の一角に皆が集まった。

 拾ってきた落ち葉や枯れ枝を一つところに置き、火をつ

けると、勢いよく炎が上がった。

 その炎の中に、太田は「天翔将星記」と書かれた書物を

くべた。

 ボウッと音がしてその書物はさらに火の勢いを高めた。

 信長は本能寺で死に、今またその精神が死んでいったの

である。

 太田はほとんど表情を変えずに淡々とこの作業を行った。

 焼けてゆく書物の断片が風に吹かれて、正英の足元に落

ちてきた。

 正英が手にとってみると、文字が読めた。

「天仰実相円満、兵法逝去、有何処兵法天下無双。臨機応

変は良将の達道なり。武を講じ、兵を習ふは軍旅の用事な

り。心を文武の門に遊ばせ、手を兵術の場に舞はせて、名

誉を逞しくする人は、其れ誰ぞや。尾張の英産、織田信長

公也」

 正英はその紙片を炎の中に投じた。

「天翔将星記」が書物の原型を留めぬほどに燃えたのち、

太田とその娘浪路は堅田湖族衆が待つ桟橋まで、邦源とお

香と正英を見送った。

 見送る太田の眼は幾分うつろであった。

 まるで未来は価値を失い、過去は遠ざかり、現在は色あ

せてしまったような感を思わせる眼であった。

 丸子船の姿が桟橋を離れ、見えなくなるまで太田と浪路

は桟橋に佇んでいた。

 その小さくなる姿を見ながら邦源は、

「わしは太田様にひどいことをさせたのかもしれないな」

 とお香に問うた。

 お香は大きくかぶりを振った。

「太田様も充分に分かっていらっしゃいます。大切な宝物

もいつかは捨てるしか意味を持たなくなるかもしれません。

宝物を捨てた悲しみは一時のもの。太田様も納得してのこ

とです」

 邦源は、

「そうだな」

 と嘆息まじりに言った。


 太田牛一はこの後、青影神社の宮司の職を辞し、娘の浪

路とともに大阪天満にて生活しながら、信長の一代記であ

る「信長公記」を記し、一六一〇年に没する。

 喪失した過去を埋めるために太田は、「信長公記」を著

したか否かは知る由もないが、後世において、織田信長を

語る際に、一級資料として常に「信長公記」が論じられる

ことになったのは、読者も知っている通りである。

                      一九九に続く



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