第三部江湖闘魂完結編一九七「信長の遺書の始末」
第三部江湖闘魂完結編一九七「信長の遺書の始末」
琵琶湖を眺望できる本殿に付けられている五段の階段の上部
に、太田牛一と岡本邦源、二段下がったところにお香と正英、
浪路は階段下に立った。
浪路は、占夢と今日の早朝に父に話した鬼道の内容の一部始
終をすべて、邦源達に語って聞かせた。
白馬、猿、永楽通宝と書かれた鈴など浪路は経験したことの
話すべきことを一つ残らず話すと、階段に座る四人を見つめた。
腕を前に組んで身じろぎもせず、浪路の話に一言も口をはさ
まずに集中して聞いていた邦源が、傍らの太田に声をかけた。
「永楽通宝が出てくれば、それは織田信長様だ。さすれば、そ
の白馬は、信長様の化身ですな。太田様も分かっていて、浪路
さんに鬼道をさせるとは、お人が悪いことで」
太田は若干不服そうに口を開いた。
「永楽通宝の文字が浮かんでいる鈴を飲み込んで大きくなった
猿と言えば、織田家を飲み込んで天下をつかんだ秀吉殿という
ことになる。しかし、猿田彦命様が鈴を琵琶湖に投げたのはな
ぜかは一向に分からぬでな。浪路の鬼道の力を見たかったこと
もあるが、それとともに鈴の意味するところを探ってもらおう
としたのはけっして戯れではないぞ」
「で、その意味は」
正英が問うた。
「浪路が鬼道で鏡に現れたのは、わしといったが、「天翔将星
記」を間にして語り合っていたとすれば、上座にいたのは信長
様しかいない。「天翔将星記」は信長様がそれまでの軍歴を元
に作成した兵法書だ。その際、わし一人が内密に書物の完成に
協力した。そして「天翔将星記」とは世に言う「信長の遺書」
の正式な名だ」
全員が太田を見た。
太田は話を続けた。
「その鈴が「天翔将星記」なら、猿が飲んだ、つまり秀吉殿が
飲み込んだのは、わしかも知れん。わしは秀吉殿が天下を取っ
た後、その要請で護衛役になっていたからな。秀吉殿が死んで
から、わしは世を捨てようと天龍寺の牧羊和尚を頼り、さらに
和尚の縁で邦源の元に行き、青影神社の宮司に入りこんだわけ
だ。まさか寺で修行していた太田牛一が神社の宮司になってい
るとは誰も思うまいという邦源の策は、まさに妙案だったな」
「父上って頭もよかったんだ」
お香が尊敬の念をこめて邦源を見た。
「親をおだててどうするんだ」
邦源は頭をかきながらまんざらでもなさそうな顔をして、太
田に話の続きを催促した。
「お香さんだったかな。邦源は武道だけではなく、頭も切れる
男よ。そこでだ、邦源よ、猿田彦命様が鈴を琵琶湖の湖中に投
げ捨てたのをどう考える」
太田が邦源に謎解きの答えを依頼した。
邦源は腕組みをしたまま、虚空をちらりと見て、
「信長の遺書を始末せよと言われたのでは」
と言った。
「わしも同じだ」
太田も同意した。
「もったいない」
正英が口をはさんだが、お香の正拳が肝臓に入り、何もいえ
なくなった。
「この太田とて確かにもったいないことだと思う。信長様の生
きた証、真の兵法の真髄があるのだからな。しかし、太平の世
においては不要なもの。危険なものだ。合戦好きな人間なら、
必ず血眼になって探そうとし、その結果、多くの人間が無意味
に死んでゆく。この世から消し去ったほうが日本のためになろ
う。井原殿も分かってくだされ」
太田は、丁重にしかし決然とした口調で言った。
「もし徳川が「遺書」を手に入れれば、日本の平和は盤石にな
ります。「遺書」を持っている徳川に逆らうものなどいないで
しょう。「武」あっての平和。政権は銃口から生れるものでは
ないのですか」
正英は肝臓の痛みに耐えながら己の考えを吐露した。
太田がさらに言った。
「「武」で獲得した政権、幕府ならばそれは覇道だ。力をもっ
て他を圧するだけなら、その上を行く力が台頭すれば、その政
権は破綻し、民衆は絶え間ない戦乱に苦しみ続ける。大切なの
は民衆に愛を感じさせる政権だ。愛と慈悲の心こそ、王道であ
る。家康様が求めるのは王道のはずだ」
「正英殿、「信長の遺書」は天下騒乱の元だ。命を受けて探す
身であれば、今、目前にして使命を果たさず、桑名に戻り、見
つからなかった、もうすでにこの世にはない模様などとウソを
いうのは、心苦しいかもしれん。ウソは追及をかわす一つの手
段であるし、己の倫理観からいつかウソはばれてしまうものと
もいえる。しかし、大義のためにつくウソは誠ぞ。本多家の皆
様に、大いにウソを言ってくだされ。誠心誠意の大ウソを天下
の民衆のために言ってくだされ。お頼み申す」
邦源もこの場で「信長の遺書」を始末することの大切さを正
英に説いた。
「英さん、お願い」
お香も頼んだ。
正英は息を整えると、静かに頷いた。
周囲の者全てが正英に礼をした。
一九八に続く