第三部江湖闘魂完結編百九十六「南から来た者たち」
第三部江湖闘魂完結編百九十六「南から来た者たち」
鏡の景色は、どこかの寺の昼間の境内の様子であった。
浪路にはそれが何度か訪ねたことがある、紀州の根来寺
だとすぐに分かった。
なぜか昼間なのに、人影がない。
すぐに場面が変わり、美里村の風景が現れた。
さらに今度は「善良寺」という文字が大書された寺の門
が出現した。
そして場面は琵琶湖の湖岸に変わったところで静止した。
岸に立って鏡の方を見つめる、中肉中背で眼光の鋭い僧
侶の姿がそこには浮かんでいた。
男の眼と浪路の眼が合った。
男の眼は、燃え立つような光を放っている。
そこに憎悪と怒りの人間の悪性を感じた浪路は、鈴を鳴
らし、
「オン・ソンバ・ニソンバ・ウン。バサラ・ウン・ハッタ」
と呪文を唱え、降三世明王 (こうさんぜみょうおう)の出
動を不動明王に依頼した。
不動明王はすぐさまその依頼に答え、降三世明王を使わせ
た。
降三世明王は、三つの顔と六本の足を持つ三面六臂の姿で、
悪に対して無敵の力を発揮する明王である。
降三世明王が浪路の眼前に出現し鏡の中に入ろうとするの
と、悪鬼の表情の僧侶が上半身を鏡の中から外に出し、小屋
の中に出ようとするのはほぼ同時であった。
降三世明王と僧侶はぶつかり合い、当然の如く、降三世明
王の法力で鏡の中に僧侶は押し返され、そのまま、降三世明
王は鏡の中に入り、次の瞬間、何事もなかったように、鏡は
またろうそくの炎のみを映し出すだけになったのである。
一六〇二年十一月十七日午前七時、浪路が父に鬼道の結果
を報告しているころ、近江堅田浮御堂近くの桟橋から一艘の
丸子船が出帆した。
丸子船は、当時の琵琶湖の水運交通に使われた船で、全長
十七メートル幅が三メートルほど、へさきから数メートルの
ところに帆が張られていて、風を受けて巧みに湖水を前進し
ていく。
船上には、岡本邦源、お香、井原正英、そして邦源配下の
堅田湖族衆が数名乗り込み船を操っていた。
船のへさきの行方は太田牛一の居場所である。
正英は船の中ほどに立って、そこから四方を眺望していた。
今朝起きた時分には、どうかと氣遣つた天気は次第に晴れ
て大空の大半を覆っていた雲は追々に散ってゆき、頭の真上
にあたる青空が次第に天上の領域を広げてゆくと共に、水の
面も船の進行につれて蒼然とした色から、日は水を照らし、
水は光を反射して輝き、水と天と合して青緑色に染め上げら
れて天然の美の世界を現出し、船はその中を、南から吹いて
くる粛々たる微風にしたがって静かに滑つて行った。
正英は、湖面を進む船の中で自然の中に浸ることができ、き
のうまでの仏にあっては仏を斬り、 親に会っては親を斬る
かのような、冥府魔道の血に塗られた世界が、嘘のように思
われ心が救われる思いがした。
主君本多忠勝の命で、良之介とともに彦根に潜入したとき
から今日まで、体苦心苦の辛さを味わい、悲哀の海の中でや
むなく放った己の技の数々により人が死んでゆく中で悩み苦
しんだのだが、眼の前に開けた美しい湖山の大觀のために、
今までの憂苦は全く忘れられて、正英の心は嬉々として眼が
覚めたごとき悦びに滿ち、或は左舷に立つて眺め、或は右舷
にもたれて遠く瞳を放ち、片時も眼を休ませないで、飽くこ
とを知らず刻々に移り変わる山の影水の光に見惚れていた。
「英さん、この景色、気に入りすぎ」
傍らに立つお香が笑いながらいうと、
「お香さんは、見慣れているかもしれないが、美しいものは
美しいよ」
と正英は言った。
「美しいものは美しいのか」
お香は感情のかけらをぽいっと投げ捨てたような言い方を
した。
そのとき、最後方にいた邦源が声を挙げた。
「帆をおろせ、大鳥居が見えてきたぞ」
お香と正英が前方を凝視すると、湖中に高さ五メートル幅
十メートルはあろうかという大鳥居が佇立していたのである。
「青影神社に行くんだ」
お香がつぶやいた。
「青影・・・・・・」
正英が問う。
「そう、あの大鳥居をくぐればすぐに」
お香が答えた。
帆を降ろした船は、艪を巧みにこぐ湖族衆の手により大鳥居
の真下をくぐった。
青影神社に続く湖岸の棧橋に上陸したのは午前九時であつた。
邦源、お香、正英の三名が青影神社の本殿にゆくための長い
階石段に向かい、他の者は桟橋に残った。
堅田からここまで二時間の間飽くことを知らぬ美しい山水を
眺め続けて来た正英は、現実世界に引き戻されたことを若干恨
んだが、すぐに気分を変え今から起こるであろう事に神経を集
中させた。
しかしそれは、徒労であった。
石段を昇り終わり、本殿への石畳を数歩歩くと、神社の宮司
らしき人物と巫女が三人を迎えた。
「娘の占夢で「南から善き者が来る」というお告げがあり、楽
しみに待っておりましたが、岡本殿でござったか。久しぶりで」
宮司が言った。
邦源も応じた。
「太田様、お久しぶりでございます」
(この方が天下無双の兵法書「信長の遺書」を所有している太田
牛一様か。とても七五歳には見えぬ。身のこなしの柔らかさは、
若者だ)
正英は宮司を見ながらそう思った。
一九七に続く