百九十二「美里正拳 平安百世(二)最澄と空海」
第三部江湖闘魂完結編百九十二「美里正拳 平安百世(二)最澄と空海」
高虎は、表と烏丸少将成幹の戦いについて問うた。
「なぜ烏丸の剣は表殿に届かなかったのか」
表は、率直に答えた。
「烏丸の腕の凄さに対抗するためには、美里正拳最終奥義
の平安百世 (へいあんひゃくせい)しかないと即座に判断し
ました。直接に衝突すれば、まず五分か、私の負け。それ
ほどに烏丸の体から放たれている「気」は充溢していたの
です。それで空海様直伝の霊的力で己の周囲に結界を張り、
烏丸の剣を受け続けて、烏丸の気を奪い、内功の力をそご
うとしたのです。そうなれば、烏丸の独鈷比叡剣を封じら
れます」
「では烏丸は、その作戦に引っかかり、攻撃を繰り返し自
滅したということになるのか」
「いえ、恐らく烏丸は己の気の力に自信があり、攻め続け
れば私の気のほうがなくなると考えたのでしょう」
「それで、ひたすら攻めたのか。しかし、最後に剣から出
た光が、炎となって我らを襲ってきたのには驚いたぞ」
「あれは、独鈷比叡剣の最終奥義「炎虎月照弾 (えんこげっ
しょうだん)」です。もし私の気が烏丸を圧倒していたら、
炎の虎となって我らを襲うことはなかったのですが、実は
私の内功より烏丸の内功が勝っていたようです。私の結界
は破られかけていたのです。私の平安百世が、真に決まっ
ていたなら、結界から放射される霊力で、その相手は荒ぶ
る魂を和らげられ、心が満たされ、心の平安が保証されて、
戦うことを止めてしまうはずなのですが」
高虎は表の話を聞いて妙な気分になった。
ならば、今の戦いで倒れたのは、烏丸ではなく、高虎や
表のほうだったことになる。
虎の顔になった炎が自分たちを飲み込もうとしたとき、
突如あらわれ、すぐさま消えていった大男の僧に助けられ
たのは、確かだ。
いったい、あの僧は何者なのだ。
そのことを、表に聞いた。
表は、満天の星を見上げながら、
「高虎様の眼に炎虎を龍となり組み伏せた僧が見えたとし
たら、その方こそ死して数百年経った今も高野山の奥の院
で永遠の命を保たれているといわれる、弘法大師空海様で
す」
といった。
「空海様が、まさか」
「空海様は美里村永代名主である表家の守護霊として、常
に私とともにいてくれるのです。私が烏丸に敗れかけたの
を見て、俗世においでになられたのでしょう」
高虎は、日本仏教界の大巨人であるとともに全国に超人
伝説を残す弘法大師空海の霊力の凄まじさを直接に体感し
たことに驚き、魂を奪われたような気分になった。
「では、倒れ伏した烏丸を天上の世界に運んでいった、あ
の僧は誰なのだ。烏丸は、最澄様、我に力を、と叫んでい
たが」
「烏丸を抱き上げ雲のかなたに昇っていかれた、あどけな
い顔をした坊様こそ、伝教大師最澄様です。最澄様は烏丸
家の守護霊ですから」
「最澄様も烏丸とともに戦い、空海様に敗れたのか」
「高虎様それは違っております。もし、最澄様が加勢すれ
ば、空海様と最澄様の全面対決となり、龍となった空海様
が、炎虎をあっというまに組み伏せるといったことは出来
なかったはず。互いの霊力のせめぎあいはこの京の町を一
瞬で破壊するほどの結果を招き、その衝撃の激しさから、
恐らく琵琶湖の水面が上昇して近江の国を水没させ、さら
に日本の各地に封印されている妖怪どもを目覚めさせたこ
とでしょう」
「最澄様は空海様との決戦を避けるために、あえて烏丸に
助力しなかったということか」
犬の遠吠えがどこからかしている。
表は軽く首を振って言った。
「正確には、もし烏丸に大義があれば、最澄様は空海様と
の対決をためらわずに行ったはず。最澄様は、日本の永久
の平和のために我らに正義があると思い、手をくだそうと
しなかったのです」
「我らに正義があると」
「私とて、同じ理由で京に来たのですから。徳川家康様の
お力で日本に永久普遍の平和秩序をつくることが、今の急
務。高虎様も、そのために徳川様に協力しておられる。最
澄様も日本のために泣いて烏丸を切ったのです」
わずかだが風が吹いてきた。
高虎は、表の話を聞き、つくづく「ありがたい」と思っ
た。
御仏に、空海様に、最澄様に、表に、そして今高虎の傍
らに横たわる梶川をはじめとする五人の遺体に代表される、
この京で大津で血を流した徳川方の者たちに。
高虎は地面に正座すると、梶川らにむかい法華経を唱え
始めた。
表は、
「おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだらまにはんど
ま じんばら はらばりたや うん」
と「光明真言」を繰り返し唱えた。
夜の静寂に、経文が響く中、帰りが遅いのを案じた藤堂
家の者たちが十数人、松明 (たいまつ)を掲げながら走り
寄って来ていた。
前方のその姿に気づいた高虎が、経文を唱えるのをやめ、
背後の表に、
「どうか今夜は我が屋敷に泊まって下され」
と言いながら振り向いたとき、すでに表の姿はなく、あとに
はただ黒洞洞たる闇があるばかりであった。
百九十三に続く