第三部江湖闘魂完結編百九十「暗殺者の生き様」
第三部江湖闘魂完結編百九十「暗殺者の生き様」
半蔵が去った後、小一時間ほどゆったりと雲の流れを見て
いた邦源とお香は、立ち上がると、来たとき同様に、湖面を
走って堅田に戻った。
さすがに、忙しすぎた午前のことに二人とも疲れて、太田
牛一の許に行くのは一日伸ばしにすることになった。
午後三時には、井原正英が岡本邸に着き、明日の早朝、太
田の許に三人で行くこととした。
同時刻、京都の関白九条兼孝の屋敷では、広大な庭の紅葉
を楽しみながら邸内を散策する二人の男がいた。
前を歩くのは九条兼孝であり、その後ろにしたがっている
のは烏丸少将成幹であった。
成幹は伊賀者の襲撃から逃れて以来、九条家に潜んでいた
のである。
「烏丸の家をなくさぬように、所司代には「成幹さんが行方
不明になって、実子もおらぬことから、仕方なく養子をいれ
て家を存続させることになり申した」と届出をだしたから、
家の事は案ずるではないぞ。麿のために、烏丸家の総力を挙
げて徳川さんに挑んでくれたことは、絶対に忘れぬ。この広
い家で、当分、のんびりしておじゃれ。そのうち良きおなご
でも探して、どこぞで暮らせるようにするからな」
九条兼孝はすでに戦いを終えた敗軍の将が、どのようにこ
れからを過ごすかを語っているような口調であった。
成幹は九条兼孝の話す言葉の一言一言に頷きながら、穏や
かな顔で聞いていた。
そして、小枝を一本折ると口にくわえ、その小枝を吹き鳴
らすと同じ音が、二人の頭上で聞えた。
木枯しが吹き始めているのだった。
成幹の吹いた音はまさに木枯らしであった。
小枝を、空高く吹き捨てるとつぶやくように言った。
「九条様、私ごときのためにこれからの行く末を、お考え下
されてありがたく存じます。しかし私は暗器師として生きて
きた人間。仏に会っては仏を斬り、過去を斬り続けた男でご
ざいます。きのうのない私には、今日はあっても、明日はな
いと思し召しを」
九条兼孝が、その言を気にして、振り向いたとき、すでに
成幹の姿は九条邸から消えていたのである。
その日の夜、つまり一六〇二年十一月十六日の夜、京都所
司代を出る藤堂高虎一行の姿があった。
馬上の高虎と徒歩で付き従う梶川小兵衛ら五名。
服部半蔵とその配下の伊賀者が所司代に到着したことを知っ
て、今日までの反徳川の公家衆との戦いについて述べ、所司
代内に潜む金地院の警護を依頼して、所司代を出たのである。
「表 (おもて)殿 (どの)に連絡は取れたのか」
傍らを歩く梶川に高虎は問うた。
表とは、高野山麓の美里村の永代名主にして、空海の創始
した「高野神拳 (こうやしんけん)」を継承した「美里正拳
(みさとせいけん)」の正統継承者、表正左衛門 (おもて せ
いざえもん)のことで (八十話参照)、今の表正左衛門は、正
確には第三十二代目表正左衛門である。
一五九五年、主君豊臣秀長の亡き後を継いだ養子の秀保が
早世したことから、世を憂えた高虎は一時期高野山に出家す
る。
そのおりに、高虎は表家と知己の関係になる(百四十三話参
照)。
烏丸家の暗器師集団に脅威を感じた高虎は、表正左衛門の
存在を思い出し、十一月の初旬に彦根に潜入する前に、日本
の平和のために徳川の側に立って、京都に出てきてもらえま
いかと、書状を送っていたのだ。
「いまだ書状の返事は来ておりませぬ」
梶川は残念そうに答えた。
「俗界のことに表家が立ち入るはずもないか。頼んだわしが
悪かったのだ」
そう高虎は自省したかのように言ったが、すでに烏丸家は
成幹を残して崩壊し、さらに服部半蔵が京都に入った今、京
都における反徳川との戦いは終了したかの感があり、余裕す
ら感じる物言いであった。
十六夜の月は、煌々と照り、高虎一行は藤堂邸への道を穏
やかな心持ちで進んでいた。
「しるべせよ 跡なきかたの白波の
行方も知らず 八重の潮風」
朗々と新古今和歌集の式子内親王の歌を詠じる声が、一行
の正面から聞こえてきた。
月を背後にしているため、明確な顔などは見えないが、公
家風のいでたちで、どこぞの公達と見受けられた。
たた酔っ払っているのか足元がおぼつかなく、よたよたと
道の中央に座ってしまった。
その公家の眼と鼻の先まで来ても座ったままである。
自然に高虎たちの行く手をふさぐことになり、供回りのう
ち二人が公家を助け起こして脇に退いてもらおうと近づいた。
「殿、困ったお公家様で」
梶川が高虎に声をかけると、高虎は一瞬笑ったが、次の瞬
間、
「梶川、公家が一人で酔っ払って出歩くものか」
といぶかしんだ。
梶川も、その言を受けて、疑念をもって正面を見たとき、
公家に近づいた二人の首が刎ねられ、そこから血しぶきが噴
きあがった。
あまりのことに、その場に立ち竦んだ高虎たちに向かい、
血しぶきの中から刀を持つ右手をまっすぐ前に伸ばして、空
中を飛んでくる公家の姿があった。
そしてそのまま公家の切っ先は、馬上の高虎の胸を突き刺
すとすぐにその剣を抜き去りながら馬の後方二、三メートル
に降り立った。
しかし、高虎を刺したと思われたその剣は、馬上の高虎を
守ろうと高虎に覆いかぶさった梶川の背中から入って胸を貫
いたものの、高虎までは達せず、そのまま梶川と高虎は馬上
からもんどりうって、地面に落ちたのである。
高虎はしたたかに背中を地面に叩きつけられたが、己の痛
みより己の上にかぶさって苦しいうめき声を発している梶川
を気遣った。
何とか梶川を抱き起こしながら、その場に片膝立ちとなり、
ゆっくりと梶川を地面に横たわらせた。
其の時、すでに梶川は絶命していた。
「ホホホホっ、主君思いの家来をもってお幸せでおじゃるな。
麿も感激しましたぞ」
「お前が殺して、何を言う」
高虎は憤怒の表情で立ち上がった。
すぐに、高虎の前に残った供回りの二名が入って、公家と
対峙した。
「高虎、麿が烏丸少将成幹じゃ」
そういったときには、立ちふさがった二名の者は血しぶき
の中に倒れていた。
成幹の剣技の早業である。
「お前の腕の凄さはわかるが、わしも藤堂高虎だ。相討ちく
らいはさせてもらうぞ」
高虎がそう成幹に向かい叫んだ時、高虎の肩越しに白光が
走り、成幹を直撃した。
成幹は数メートル飛ばされたが、くるりと回転して着地す
ると深く息を吐きながら気を整えた。
高虎を見れば、その前に長身だがやせこけた男の姿が現れ
ている。
「今の気玉はなかなかのものでおじゃるな。しかし、麿には
敵わぬぞ。おぬしは何者じゃ」
男は、成幹の言葉には答えず、
「テン ティ ツゥ ザイ ウォ シン ジョン(天地都在我
心中 天地は全て自分の心の中に在る)」
と直立不動で、両の手の平を胸の前で合わせながら、なに
やら呪文のようなものを唱えている。
「表殿、来てくださったのか」
男の背後にいる高虎が、そうつぶやいた。
百九十一に続く