江湖闘魂完結編百八十九「琵琶湖の風 服部半蔵」
第三部江湖闘魂完結編百八十九「琵琶湖の風 服部半蔵」
猿飛は、「信長の遺書」は行き方知れずと真田幸村に報告
すると約して、邦源とお香の許を去っていった。
すでに日は中天を指している。
堅田に戻ろうかと二人が考えていたとき、小船が二人のた
たずむ岸に近づいて来た。
小船には、櫓を手にした三十前後の男とゆったりと座って
いる五十がらみの男がいた。
二人とも浪人姿である。
岸までほんの数メートルの距離まで来て、小船は進むのを
止めた。
同時に座っていた男が立ち上がった。
背は百七十五センチくらいか、顔は細面だががっしりした
体格である。
「邦源様、お分かりになりますか」
その男はにこやかに邦源に話しかけた。
邦源は最初、軽く首をひねり怪訝そうな顔をした後、その
男のほうをしっかりと見据えて、分かったというように軽く
頷いた。
「服部半蔵だな」
小声で確かめるように、ゆっくりと言った。
お香の体が一瞬ふるえた。
「そうです。本当に久しぶりです。拙者、家康様上洛の先遣
隊として、大津に入ったところ、猿に似た男が堅田方面を徘
徊しているという噂を聞いて、真田の猿飛ならば大変と、当
地まで来た次第です」
「それで猿飛が空を飛んで行くのが見えて、ここまで来られ
たか」
邦源が、半蔵の言葉を継いだ。
「御意」
半蔵も満足げに頷く。
「半蔵殿、猿飛はもう紀州の真田様の許に帰っていった。心
配は無用ですぞ。わしのほうで猿を山に帰してな」
「邦源様の説教なら、猿にも分かりましょう」
半蔵は櫓をこぐ男の肩を軽く叩いた。
ならば帰るぞという合図である。
小船が方向を変え、湖水を戻りかけたとき、
「おいおい、わしの娘に挨拶くらいしてくれぬか」
と邦源が言った。
半蔵の眼は一瞬、大きく見開かれ、すぐに元に戻ったが、
次には落ち着き払っていた顔が見る見る真っ赤になった。
「邦源様の娘御か。服部半蔵と申す」
消え入るような声で、何とか己の名をお香に述べた。
二十年以上前に、岡本家の養女.に出した我が子に、まさ
か今になって対面するとは夢にもよらぬことであった。
半蔵様、当たって砕ける気持ちでお尋ねするのですが、
もしや私ぐらいの年頃の女の子を持った憶えはありません
か。無躾とは重々存じながら、それが承わりたくて。あッ
半蔵様、憶えがあるんだ。 顔に出たその愕きが。今、眼
の前に成長したあなたの娘がいるのですよ。恐らく、これ
が最初で最後の巡り会い。もっと娘の顔を、お香の顔をしっ
かり見つめてください。私の顔をあなたの脳裏に焼き付け
てください。
お香は心の中で、実の父との対話をしていた。
しかし、それを声に出すことはなく、半蔵に向かって深々
と頭を下げ、それから「失礼します。随分と、お達者で」、
と表情を変えることもなく言った。
半蔵は無言で礼をして、ゆっくりと小船は岸から去って
いった。
遠ざかりつつある半蔵の眼に入ったのは、お香が首を傾
けたり、両手を上に挙げたりしながら、口を大きく開けて
いる姿だった。
なぜか声はだしていない。
お香は、いったんその動作を止めたかと思うと、もう一
度繰り返した。
首を大きく傾け、次には両手を広げ、さらに片足立ちに
なり、中腰になってゆっくり両手を前に突き出し、最後に
両手を上に挙げ、その動作にあわせて、唇を大きく開いた
り、きりっと結んだり、五つの動作が五つの声を発してい
るのは分かるが、やはり声には出していない。
「あの娘さん、妙なことを言ってますね」
櫓をこいでいる者が言った。
「何といっているのだ」
半蔵が訊いた。
「お頭 (かしら)のほうが、読唇術は得意でしょう。年をと
られて、眼がお悪くなりましたか」
こぎ手はきつい冗談を返してきた。
(実の娘に出会って感激のあまり、涙が出そうなのをこらえ
ているのだ。読唇術どころではない)
と言う事が出来るはずもなく、仕方なく「年なのだ」と
肯定して、こぎ手の答えを催促した。
こぎ手は笑いながら答えた。
「お、と、う、さ、ん、と言ってました」
その答えの途中から、半蔵は二十年以上こらえてきたもの
が、湧き出てくるのをおさえることは出来なくなっていた。
半蔵は、あふれでる愛を、とめどなく流れる涙をごまかす
ために大声で叫んだ。
「フッ、妙なことを言う娘だ。しかし、琵琶湖の風というの
は、眼にしみるものだな。眼が痛くてたまらぬ」
邦源は遠ざかり行く半蔵を見送りながら、送別に中唐の詩
人干武陵の「勧酒」の一節を朗々と吟じた。
花發多風雨 (花發<ひら>けば風雨多く)
人生足別離 (人生別離足る)
この漢詩は、後に井伏鱒二が訳し、
花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが人生だ
という文言で知られているものである。
百九十に続く