江湖闘魂完結編百七十六「示現流 東郷重位」
第三部江湖闘魂完結編百七十六「示現流 東郷重位」
一六〇二年の十一月十五日の朝、所司代の奥の広間で穏や
かな笑みを浮かべる島津義久には家康との大合戦を終えた男
の満足感があった。
義久や板倉に長岡出立の挨拶を済ませた正英らは所司代を
出て行ったわけだが、その際、正英、良之介、梶川の三名に
もう一人、義久の命を受け宮内平蔵を討ち果たすため、あの
目つきの悪い東郷重位が付いて来たのは当然であった。
義久らがこの朝、所司代を訪ねたのは、反徳川の襲撃団の
中に宮内平蔵の影を見、所司代の金地院護衛の中に東郷を加
えてもらいたいからであったのだ。
東郷重位はこの年四十一歳。
義久の家臣として幼きより仕え、島津が豊臣秀吉の前に敗
北した後の一五八七年、重位は義久に従って上洛する。
本当の目的は内職のため金細工の修行をすることだったら
しいが、善吉和尚に出会い剣の奥義を学び剣術に開眼、修行
の後薩摩に帰国して、次第に剣の達人として頭角を現してい
く。
薩摩では北薩摩の東郷、南薩摩の宮内平蔵と称されたが、
一五九九年宮内が主である義弘の側室と護衛の者を惨殺して
出奔してからは薩摩に敵なしといわれていた。
後年、薩摩藩以外への伝授を厳しく禁じる御留流である示
現流剣術の始祖となる人物である。
京都市中の桂を抜け長岡への道すがら、西山の竹林の葉音
に正英は、あの関ヶ原の島津追撃戦でつかの間の出会いをし
た島津豊久という武将のことを思い出していた。忠勝様を震
撼させた剣技を持ち一人で烏頭坂に踏みとどまった、そして
井伊直政に背後から狙撃されて「島津のこと、何とぞ、何と
ぞ、お許しを願わしゅう存じまする」と島津のことのみを忠
勝に託して死んだあの武将。
豊久の遺骸を前に黙祷を忠勝の命でしたときも、風のささ
やきのみが聞こえていた。
「東郷さん、島津豊久様を知っておられるか」
正英が豊久のことを聞きたくなったのは自然のことだった。
東郷は正英の唐突な問いに怪訝な顔をした。
しかし、関ヶ原で島津義弘の部隊を最後まで追い続けたの
が、本多騎馬隊であったことを東郷は薩摩で話しに聞いたこ
とがあった。
「井原様は本多家の方でしたね。豊久様と関ヶ原でお会いな
されたので」
逆に東郷が正英に問うた。
「私は、豊久様の死に立ち会いました。見事な男の死に様で
した。島津の家中の方に会ったら、是非豊久様の武士らしい
最期をお知らせしたかったのですが、さきほどは、まさか義
久公にお会いできるとは思わず狼狽して頭の中に霧がかかっ
ていました。この竹林の葉音を聞くうちに自然に二年前の烏
頭坂を思い出したのです」
東郷は正英の話を聞いて、豊久様は本多勢に烏頭坂で殺さ
れたというのが薩摩では定説になっていると話し、正英を驚
かせたが、豊久の死の状況を語ると今度は、東郷が驚くこと
になった。
「ただ井伊様はもう亡くなられているし、誰が殺したかなど
考えてもは詮かたないことですね。はっきりしているのは、
豊久様が武士としての技も心も持っていたということです。
東郷様それだけは薩摩の皆様にお伝えください」
正英は長年のつかえがおりたような気分で東郷に言った。
東郷は了解したということを大きく頷くことで示したが、
「私は義久様の家臣なので関ヶ原には参りませんでしたが、
義弘様が参加したために、義弘様を慕うものたちが関ヶ原に
行き、多くの有為な人材が失われたのです。特に豊久様の死
は薩摩を悲しませました」
としみじみ言い、さらに、
「その前に宮内から返り討ちにあったら、豊久様のことを薩
摩に戻って話せませんから、これは死なれませんな」
と付け足した。
正英、良之介、梶川、東郷の四名が長岡高明寺に到着した
時、すでに陽は西山の峰々にかかりつつあった。
百七十七に続く