江湖闘魂完結編百七十五「島津義久対徳川家康」
第三部江湖闘魂完結編百七十五「島津義久対徳川家康」
関ヶ原で逃げる島津を追い負傷した井伊直政は、戦後処理
において島津は本領安堵にすべきと家康に主張した。
その理由は、島津の薩摩本国には一万五千を越える兵と三
千丁以上の鉄砲が手付かずで残っており、また島津が朝鮮の
役に参加した東軍の武将の多くを救った戦歴から島津に好意
的な武将が多く、島津征伐などとなってもし島津を攻めれば
寄せ手にもかなりの損害が出、場合によっては裏切る武将が
でる恐れがあり、そうなれば徳川中心の平和秩序の建設が遅
れるか霧消に帰す可能性があるとのことであった。
この井伊の直言に対して本多忠勝は、勝利者が敗北主義の
道を行くのかと反論したが、家康は井伊の考えに理ありとし
て、島津の本領安堵を既定の方針としたのである。
関ヶ原の合戦から一月後の一六〇〇年十月には、井伊は山
口と協議の上、使者を鹿児島に派遣し、本領安堵のの予定だ
が、そのためには関ヶ原合戦に参加した義弘ではなく、長兄
の義久が恭順の意を示すために上洛することを、家康が望ん
でいることを教えた。
薩摩では、本領安堵の報に家来一同は喜ぶが、義久と忠恒
と家老鎌田政近の三人は協議の上、上洛は断固せずという結
論を下す。
その三者の話し合いの中で義久は、
「家康殿は、忠義者で知られている。またこの島津は、庄内
ではひとかたならぬ世話にもなった。今度は弟の義弘が我ら
の忠告も聞かずに関ヶ原に出て、家康殿の本陣の前を通って
脱出するという愚挙をなし、家康殿に大恥をかかせた。それ
でも許してくれるという。ありがたいことだ。しかし義弘と
同じく西軍に属した者たちに如何なる処罰があったか。毛利
は合戦に参加せず、毛利とは縁続きの小早川の活躍があった
にもかかわらず百二十万石が三十万石になり眼もあてられぬ
始末だ。明日は我らが毛利になるかも知れないのだ。わしが
今、上洛すれば本領安堵というが、それは今だけのことだ。
家康殿は忠義者だが、それは日本の平和のためであって、そ
のためならいくらでも裏切りをしていく御仁だ。関ヶ原が終
わったその日から、島津と徳川の見えない合戦が始まったの
だ。これは大合戦ぞ。二十年ほど前、柴田勝家と秀吉殿の賤
ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)で柴田側の武将佐久間
盛政は引き際を間違え、秀吉に付け入られてそのまま柴田の
本隊までも壊滅した。上洛は、引き際を間違えた佐久間と同
じだ。徳川殿に付け込まれ、さらなる要求が出され、最後は
島津が崩壊する。忠恒よ、父義久は絶対に薩摩からは出ぬと
書状をしたためよ」
と激烈なる内容を、静かな口調で言ったのである。
この義久の徹底抗戦とも取れる対徳川の方針は、井伊や山
口などの島津に好意的な者たちを困惑させることになったが、
家康の腹が読めぬのだから、義久の考えは島津の守護者とし
ては妥当のものであった。
翌年の一六〇一年の四月に山口から懇願された新納が薩摩
に帰国して、家康には島津をだますつもりはないことを、義
久や義弘に語った。
忠臣である新納の言の影響はあり、義弘は桜島に隠棲し、
事実上の政治的引退を家康に示し、義久は鎌田を新納ととも
に七月に京に行かせる。
鎌田は新納を通じて山口と接触して家康との会見を打診し、
八月には伏見城で家康との話し合いに成功する。
新納とともに鎌田は鹿児島に帰国し、家康の島津安堵の気
持ちに異心無しと義久に告げるが、義久は、「まだ弓を射る
ほどにつるは伸びきっておらず」と鎌田に慎重さを要求した。
翌一六〇二年の二月に井伊が急逝し、本多正信が山口とと
もに交渉役に加わることを知った義久は、「そろそろ弓を射
るか」と忠恒に上洛を命じた。
歴史的事実としてはこの年の十二月末に家康に伏見城で忠
恒は拝謁して本領安堵の御礼を言上し、正式に島津は徳川の
権力を認め、徳川政権の下で二百数十年を生きることになる
のだが、家康としても一方的に義久の意のままになっては己
の権威に関わると考え、義久に「わしの言うことを少しは聞
いてもらえまいか。非公式でよいから京で徳川の代表者に会っ
てほしいのだが」という要請をしたのである。
「これほどに徳川が譲歩しているのに、島津の最高責任者が
挨拶にも来ないのか」という思いが、家康には強くあったの
だ。
義久も新納よりその旨を書いた家康の書状をもらい、「弓
も引きすぎるとつるが切れる」とその内容に同意し、十一月
の上旬に京で山口と板倉に会うことにしたのだ(職務上本多正
信も同席する予定だったが駿府から離れられずと正信は来な
かった。もちろんそれは家康なりの長年自分を待たせた男へ
の軽いイヤガラセであった)。
京で山口と板倉に義久は会い、それにより薩摩藩本領安堵
の処遇は実質的に機能するのだが、形式的には翌月の京都伏
見城での家康への忠恒の謁見まで待つことになる。
大合戦を終えた義久は、反徳川の公家の家臣の中に、義弘
の側室を殺害して薩摩藩を出奔して上意討ちの命が出されて
いる宮内平蔵がいることを知った。
そこで義久は、京土産の一つに宮内の首を持って帰ろうと、
東郷にその役を命じたのである。
百七十六に続く