第三部江湖闘魂完結編百七十三「柳生兵庫助」
第三部江湖闘魂完結編百七十三「柳生兵庫助」
お香は太田牛一の居所を父邦源が知っている可能性が強い
ことを正英と良之介に告げ、堅田に戻って行った。
正英と良之介は、京のことから自由になれば急ぎ堅田に向
かうことをお香に約した。
お香が去ったあと二人は所司代に行こうとしたのだが、途
中の二条城付近で二条城警備の徳川の者たちに停止させられ
る。
正英は本多家の家臣であり、板倉勝重や藤堂高虎の依頼で
金地院の警備に当たっていたことを述べ、板倉か高虎への面
会を求めた。
三十分ほど二条城門前で待たされた後、馬に乗った梶川小
兵衛が左肩に包帯を巻いて出てきて、所司代に二人を連れて
いった。
所司代の門前には何十名もの武士がいて、大名が乗るよう
な立派な駕籠 (かご)の準備も出来、誰か身分の高い者が今
からどこかに出立するような雰囲気である。
所司代内の奥の広間に梶川に導かれて入ると、金地院も高
虎もそして板倉も、微笑しながら座っていた。
「感謝しておりますぞ」
金地院が正英の許に歩み寄り、立ったままの正英の右手を
両手で握った。
正英は、自分がすべきことをしたまでと金地院の両手をお
だやかに離し、若き英才を元いた場所に先に座らせてから、
己も座り、それを待って良之介も座った。
高虎は安堵した面持ちで、
「よく生きて戻ってくれた。我らは地下通路を抜け、出口の
古井戸から出たあとは、馬で所司代に行った。我らが所司代
に着いたと同時に、板倉殿が所司代や二条城の者たち合わせ
て三百名を南禅寺に向かわせたのだが」
と抜け道に入った後のことを正英に告げた。
「とにかく、今夜はゆっくり休め。明日も忙しくなるが、も
うひと踏ん張りだからな」
板倉がいたわりの言葉をかけた。
板倉が手を叩くと正英と良之介を休む部屋に案内する侍が
来た。
二人はその者に先導され部屋を出て行きかけたが、若い侍
が入れ替わりに入ってきて正英とぶつかりかける。
その若者は凄まじい速さで、体をかわし正英の傍らを過ぎ
た。
あまりの速さに、正英は自分の体を若者が通り抜けていっ
たかのような錯覚を覚えた。
「面目ない」
若い侍は即座にあやまると高虎や梶川に、出立の用意が出
来ましたがどうしましょうか、と声を掛けた。
正英がその言に興味を示したかのように、高虎の顔を見た。
高虎は正英の視線を受け止めると、小さく頷き、
「我らはもう一仕事あるが、おぬしたちがやったことに比べ
ればたいしたことはない」
と言うと金地院と板倉に黙礼した後、立ち上がって若い侍
とともに部屋を出て、玄関の方に去った。
正英も高虎の後に続こうとしたが、案内役の侍と梶川に制
止させられた。
正英と良之介は、そのまま休むための部屋に行き、一風呂
浴び軽い食事をとって寝たのだが、寝る前に梶川から高虎が
どこに行ったのかを教えられた。
正英が所司代の門前で見かけた駕籠は、金地院を京都長岡
高明寺に移送するためのものであり、今夜中に金地院を動か
すために高虎は所司代を出たと言うのだ。もちろん金地院は
所司代の内部に今もいる。
空の駕籠で出発したのだ。
なぜか。
金地院が長岡高明寺にいるというニセ情報を京都中にばら
まき、今夜南禅寺を襲ったもの共を高明寺におびき寄せ一挙
に葬ろうというのだ。
立案者は板倉だが、高虎も普通の精神状態の者達ならニセ
情報に引っかからないであろうが、死に急ぐ者たちならその
情報に飛びつき死に物狂いで攻め立ててくるであろうと同意
したのである。
正英は梶川の話を聞いて、高西暗報の顔を思い浮かべ「さ
もありなん」と思ったが、高虎の供の者たちの実力に疑問を
持った。
「明日ではなく我らも今、同道すべきであったのでは」
つぶやくように正英は言った。
梶川は、長岡に行った供回りの編成は、所司代と二条城の
護衛役の中から四十名、藤堂藩の鉄砲衆を十五名、あとは柳
生衆が二十名で充分な戦力だと言った。
「柳生が来ているので」
良之介が言うと、正英も同じように聞いた。
「さっき部屋を出るとき若者とぶつかりかけたであろう。あ
の者が柳生衆の責任者柳生利厳 (やぎゅう としよし)だ。石
舟斎様からの書状を持参していて、それがなかったら、なん
でこんな若者をと首をひねったであろうが」
梶川は苦笑いをしながら、そう言った。
梶川は、最後に正英と良之介に明日、自分と一緒に高命寺
に行ってもらいたいと言った。
正英も良之介も当然というように軽く頷いた。
それで梶川は部屋を出て、正英と良之介は床に就いたのだ
が、正英は柳生流最高の使い手という柳生利厳の武名だけは
知っていたので、供回りの実力に安心して充分なる睡眠をとっ
たのである。
第百五十一話で述べたが、、勧修寺晴豊への白昼堂々の襲
撃事件に伴い板倉勝重は柳生石舟斎に応援の書状を送った。
石舟斎はすぐに応じ柳生流の継承者である柳生利厳を京に
送ることで、板倉の期待に応えたのである。
柳生利厳はこの年二十三歳、柳生兵庫助の別名でしられる
日本最高の剣術家の一人である。
父は石舟斎の長男で早くに死んだ厳勝で、そのため幼いと
きから石舟斎は兵庫助を己の手元に置き、柳生流の全てを教
え込んでいった。
兵庫助にも天分があったのであろう。
十五歳の時には、石舟斎から柳生新陰流極意書を柳生家中
で唯一与えられる栄誉に浴し、石舟斎の正式な後継者となっ
ている。
百七十四に続く