江湖闘魂完結編百七十「南禅寺の死闘 自来也伝奇」
蝦蟇功 (がまこう)の祖は、信州小諸の土豪比佐芳武
(ひさ よしたけ)である。
十四世紀の人であり、父の是清は法華経を昼夜の別
なく唱える熱心な仏教徒であったが、芳武は父に反発
し山に籠り修験道に励んだ。
その修験の努力の成果が、多くの呪法を生むことに
なる。
名も仙覚道人 (せんがくどうじん)と改め、一三九九
年九十五歳で没するまで、幾多の奇跡を行い続けた。
この仙覚道人の術を継承したのは、同じ信州の豪族
の鳴門宗久 (なると むねひさ)であった。
豪族とはいえ、家は宗久十二歳の時、家臣の山形勲
と更科弾正の裏切りで滅ぼされていた。
一族が殺される中で宗久は七五歳になっていた仙覚
道人に救われる。
それ以後二十年の歳月を道人のもとで修行を積み術
を会得し、道人亡き後鳴門宗久は名を 「自来也 (じら
いや)」と変えて山を下り、「悪の報いは自ら来る也」
と襲撃先に念力で大書しながら、山形勲と更科弾正を
殺害し復讐をはたしたのち、また山に籠もる。
この復讐劇の最中に衆人環視の前で、蝦蟇のような
格好になり、不可思議な技を次々に繰り出したことか
ら、自来也の武術は蝦蟇功と言われるようになったの
である。
自来也が死んだ後は京都の太秦から来た片岡千恵蔵
がその技を受け継ぎ、千恵蔵老いてのち、甲賀で二十
歳まで忍術修行をし、その後信州の千恵蔵の下で蝦蟇
功を学んでいた戸沢白雲斎に後事を託し、自身は冥界
に隠れる。
戸沢白雲斎は、甲賀流と蝦蟇功を調和させ、甲賀流
信濃忍法を創始するのだが、その生涯で蝦蟇功を教え
たのは、井原正英一人であった。
なぜかと言えば、答えは簡単であり、蝦蟇功を継承
できる体力と気力を持つ人物が正英以外にいなかった
からである。
正英が金地院で用いた蝦蟇功の奥義、咆哮残姿風
(ほうこうざんしふう)は、文字通り咆哮したもの以外
の姿が残らぬ必殺技であり、叫び声に体内の気を全て
集め、一挙に噴出させるもので、その声の風速は一瞬
だが八百五十メートルであり、咆哮残姿風を浴びた者
は、その風圧で服は千切れ首や手足が胴から離れた形
で死んでいくのである。
正英の叫び声の後、この地上のものが全て死に絶え
たような静寂が金地院を襲った。
良之介はその静寂に耐え切れず、ゆっくりと立ち上
がり眼を開けた。
その眼に映じたのは、手足や首が正英の前方に散乱
している地獄絵図であった。
良之介は吐き気を催しながら、何とか縁側を降り、
庭に出た。
庭にも全裸に近い形で手足の無い死体がいくつかあっ
た。
服を着ているのもあるが、それらは所司代や藤堂家
の者たちで、明らかに正英が咆哮残姿風を放つ前に敵
方に殺されていたことが分かる死体であった。
ゴトッと音がしたので縁側の方に眼をやると、正英
がよろめきながら降りて来ていた。
急いで正英の許に駆け寄ると、正英は息も絶え絶え
で、顔も土気色 (つちけいろ)である。
咆哮残姿風は己の体内の気のほとんどを放出するた
め、技をだした後は、一晩の休養を要する技なのであっ
た。
良之介の肩につかまり、正英はなんとか金地院の出
口にあたる門にまでたどりついた。
門を出て、右に行けば南禅寺を出ることになる。
左に行けば四百メートルで南禅寺の三門に至る。
正英と良之介は自然に足が右に向いた。
だが数歩で彼らの足は止まった。
眼前に二十名以上の人影が揺らいでいる。
何人かが松明を持っていて、その明かりに最前列の
者の顔が映し出された。
高西暗報である。
「井原殿、息災でござったか。といいたいが、かなり
お顔の色が悪そうで、さては咆哮残姿風を使って、体
の気がなくなられたか」
暗報も武林に名を馳せた男であり、蝦蟇功の秘技を
知っていたのだ。
「ご心配していただきかたじけない」
正英は良之介の肩にもたれかかりながらも礼儀とし
ての挨拶をする。
「お口だけは元気なようで。しかしお体の悪いことは
明らかでござるぞ。お休みなされ。我らがすぐに楽に
してあげましょうぞ」
暗報がそう言った瞬間、傍らの宮内平蔵が抜き打ち
に正英に切り掛った。
百七十一に続く