第三部江湖闘魂完結編百六十七「竹林からの脱出」
お香は、真田幸村を誉めそやす猿飛を悲しい眼で見て、
「兄さんは、日本一の戦術家って幸村のこと言ってるけ
ど、結局幸村って合戦好きなだけでしょ。そんな人の、
人殺しの好きな人間の家臣だということが、そんなに素
晴らしいことなの。それよりも兄さんも徳川のために働
こうよ。」
と訴えた。
しかし幸村への批判は、猿飛の理性を狂わせただけで
あった。
その言葉を猿飛が聞いたとき、幾分薄くなっていた猿
飛の茶色の眼が、また濃くなっていったのだ。
明らかに、猿飛が交戦モードに入ったシグナルである。
お香はその様子にすかさず先手をとるため、夕波十八
掌を打った。
即座に猿飛の体は数メートルむこうに吹き飛ばされて
いく。
その刹那、お香は再び傍らの竹を駆け上がった。
すでに夕暮れ近く、薄桃色に染まる嵐山の竹林の空高
くに大鷲の巨大な姿が現れていた。
お香は大鷲の鳴き声に反応した。
猿飛に議論を吹きかけながら、その一方で竹林からの
脱出の機を窺っていたのだ。
お香は竹の先端まで駆けるとそのまま空に向かって、
両手を大きく広げながら跳躍した。
そのお香の動きに合わせるかのように、大鷲は降下し
て行き、お香が大鷲の右足首を両手で掴むや否や、上昇
し上空三十メートルの所で、安定した姿勢になると、お
香はさらに跳躍して、大鷲の背に乗った。
お香が下を見ると、何本かの竹を砕きながらに吹き飛
ばされていく猿飛が見えたが、次の瞬間猿飛が両腕を前
に突き出し、空中に飛びだしていく姿がお香の眼に確認
された。
障害物にあたる衝撃から来る弾性力を利用し、その反
作用をエネルギーに変えて空中を飛ぶのが信濃忍法「さ
るとび」だが、お香の夕波十八掌から放たれたエネルギ
ーを体に直接に受けた猿飛は、とてつもない力で竹とい
う障害物にあたった。
その抗力と竹の自然の摂理としての弾性力から来る反
作用エネルギーは時速五百キロのパワーを猿飛に与え、
空中に放ったのである。
最初は小さな点であった猿飛の姿は、お香に向かい、
次第に大きくなっていく。
赤ら顔の猿飛の顔がはっきり見えだしたとき、お香は
夕波十八掌を打とうとしたが、鷲の背の上で打てば鷲に
も負の影響はあり、鷲自体が死ぬ可能性もあるのだ。
お香は背中に笠を結わえていたのを思い出し、すぐさ
ま手に取った。
そして、
「ハンニャハラミ、ハンニャハラミ」
と呪文を唱えながら笠に気を込め、左手で斜め後方に
投げ捨てた。
笠は一、二秒ほど落下した後、すぐさま上昇しお香に
迫る猿飛の背後に回った。
猿飛は背後の気配を察し、振り向こうとした刹那、猿
飛の後頭部をめがけお香の笠が襲いかかった。
猿飛は、わずかの差で笠を避けたが、そのため空中で
のバランスを崩して失速し、手足をばたつかせながら墜
落していった。
お香は猿飛が地上に落ちていくのをわずかに見たが、
表情を変えることはなかった。
猿飛は嵐山保津川に落ちたのだが、運よく水深があり、
水中から浮かび上がって水の上に顔を出し大きく息を吸
うことが出来たのだが、その時、己が泳げないことに気
づき、今度は川の中で手足をばたつかせることになった
のである。
以下百六十八に続く