第三部完結編百六十五「堅田水舟拳夕波十八掌」
第三部完結編百六十五「堅田水舟拳夕波十八掌」
「兄さん久しぶりです」
お香が笑いながら近づこうとすると、猿飛は座ったまま
刀を抜くや傍らの竹を切り倒し、倒れ掛かる竹を凄まじい
速さで切っていく。
いつのまにかお香のほうに向けられた右手に持つ刀の上
には、十五センチほどの高さの竹筒が二つ乗っていた。
「兄さん相変わらずの凄腕ですね」
「世辞はいらぬ。どうだ一杯飲むか」
猿飛は立ち上がりながらそういうと、刀の上の二つの竹
筒に腰に結わえていた瓢箪から酒を注いだ。
そして瓢箪を後ろに投げ捨て、竹筒の一つを左手で持ち
上げると、残りの竹筒を、刀を前に突き出しながらお香の
方向に飛ばした。
お香は背中にくくっている菅笠と杖のうち、右手で杖の
ほうを背中から取り出すと、己の顔面あたりに向かってき
た竹筒を杖で受け、杖のわずかの幅に竹筒を乗せた。
さらに杖の上の竹筒を左手で持つと、グイッと飲み干し
竹筒と杖をそのまま投げ捨てた。
口元にわずかに残る酒を袖口でふくと、ニヤリと不敵に
笑う。
「手荒い歓迎に驚いていますが、兄さんもお酒をどうぞ。
さすがは兄さんの酒。うまかったですよ」
猿飛に兄弟子への敬意を一応は込めて、お香は丁重に言っ
た。
猿飛も酒を一息に飲むと言う。
「信長の遺書を探しているのだがお香に心当たりはないか」
この言葉は、お香を困惑させた。
なぜ猿飛兄さんが、信長の遺書を知っているのか。
なぜ猿飛兄さんも、信長の遺書を探しているのか。
「兄さん、誰の遺書って言ったの」
お香はとぼけた。
とぼけながらもお香は、一五九八年に戸沢白雲斎が亡く
なった時のことに思いを馳せていた。
亡くなる三日前に白雲斉はお香を枕元に呼び、上総大多
喜の本多家に井原正英という者がいて、武術、人物ともに
優秀であり、是非嫁に貰ってもらえと遺言を残す。
お香はその言葉を信じ、大多喜に行き、正英の許嫁になっ
た。
猿飛兄さんは・・・・・・、そうか、師匠亡き後、真田幸
村の家臣に取り立てられたのだ。
ならば猿飛兄さんは、徳川の側の人間ではない。
「兄さんは今でも、幸村さまの御家来なのですか」
お香は率直に、敵か味方かの区別がつく問いを発した。
「今でもな。信長の遺書を知らぬか」
猿飛は、ぶっきらぼうに答えた。
「信長って織田信長のことですか」
あくまでお香はとぼける。
「お香、俺の眼はどれくらいの距離まで見えるか覚えてい
るか」
「たしか四〇〇メートルあまりでしたか」
「そうだ。俺は幸村様の命で京都に出て、この二週間、京
都のある公家の情報を信じ、遺書を持つ太田牛一の居所を
探して長岡とこの嵐山の間の様々な所を訪ねて、ひたすら
歩き回っていたのだ。今日も嵐山を歩いていると、清涼寺
あたりを何と我が妹弟子お香が、歩いているではないか。
なぜお香が。声をかけようと思ったが、なぜ兄さんが、と
言われたらウソもいいたくないし。お前をつけて、天龍寺
の宝岩院まで行ったのだ」
「それで、和尚様と長椅子に腰掛けて話しているのを四〇
〇メートル先で見ていたのですか。兄さん暇すぎますよ」
お香はあきれ顔で叫んだ。
「ふん、何とでも言え。俺はしっかりお前とあの和尚の口
許を見た。俺は相手の口の形から、言葉は聞こえなくても
ある程度意味がわかる術を会得している。和尚の方は角度
が悪くよく見えなかったが、お前の口許は、信長の遺書と
言っていたのだ。なんという幸運。天は俺を見捨てていな
いと分かった。まさか同門の二人が別々に同じものを探し
ていたとは」
お香は猿飛の濃い過ぎる茶色の眼をうかがった。
猿飛の茶色の眼は真剣になればなるほど濃くなっていく。
三年間の信州での修行の中で、お香は猿飛の眼の凄さに気
づき、猿飛と接するときは常に眼の色を探るのだ。
そして今日も。
その眼が、次第に濃くなっていくのが、はっきりとお香
には分かった。
(猿飛兄さんは本気だ)
お香は全身の力を抜き、どこから攻められても対応が利
く姿勢をとり、
「何のことを言っているのか私には分かりませんが」
とあくまでとぼけた。
「お香、わしを怒らせたいのか。容赦はせぬぞ」
猿飛が低い声で言う。
(平地で何の障害物もないなら「さるとび」の使えない兄
さんはそう恐くない。もし戦えば私が勝つだろう。しかし
ここは竹林。とくに竹は弾力性がある。障害物にぶつかる
ときの弾力をその何十倍もの力に変えていく「さるとび」
の技を使うには最適の場所)
そこまでお香が考えたとき、猿飛は傍らの竹を二本切り
倒した。
二本の竹はそのまま倒れず、生き物のようにお香に向か
い突き進んでいった。
お香は即座にやや膝を落とし、腰を反時計回りに回転さ
せながら、右の手の平を上方に突き出した。
瞬間、お香の体全体から白い光が放たれ、飛んでくる二
本の竹はあたり一面に砕け散った。
堅田水舟拳奥義の一つ夕波十八掌 (ゆうなみじゅうはっ
しょう)である。
お香は体内のすべての気を右手に集中させ、破壊的エネ
ルギーとして一挙に体外に放出させたのだ。
以下百六十六に続く