第三部江湖闘魂完結編百六十四「遺書の行方、そして」
「早朝に来たそうだな」
牧羊から声がかかった。
お香は右手で拳を作り、左の手の平に胸の前で合わせ、
「武林の先輩に昨年に続きお会いでき、うれしゅうござ
います」
と敬意を表した。
「固苦しい挨拶は抜きにして、茶でも飲もう」
牧羊はそう言うと、そのまま本堂の脇にある茶室に入
り、湯気が立っている茶をたっぷりいれた茶碗を両手に
持って出てきた。
そして茶室の外に置かれた三人ほどが座れる背の低い
長方形の腰掛けに座ると、お香を手招きした。
お香は飛び跳ねるような歩き方をして、牧羊の側に腰
を下ろすと、
「無作法はお許しください」
と言いながら、「お先にちょうだいします」と右手で
お茶碗を取って左手にのせ、頭を軽くさげて感謝の意を
示し、茶碗を時計まわりに二回まわし、茶を一挙に飲み
干した。
その後で飲み口を右手の親指と人差指で拭くと指先を
懐紙で拭い、茶碗の正面を牧羊の方へむけて返し「ハァー
、すっきりしました」とあくまで率直に言うお香である。
「そうか、すっきりしたか。作法もそれほど無作法では
ないぞ。湯を沸かして待っていた甲斐があった」
牧羊も満足げに言う。
牧羊の物言いは淡々としているが、その声にはお香の
心に響くやさしさがある。
そのやさしさにすがり、お香は今日の来訪の理由を語っ
た。
「太田様か。そうだな、九八年に秀吉が亡くなられたあ
と、ふた月ほど経って太田様から手紙があった。「どこ
ぞの寺で住職を務めたいのだが、住職不在の寺をお探し
願えまいか。あつかましいお願いだが、ひと月後に御坊
に会いたいと考えておるので、それまでによろしくお取
り計らいを」というものだった」
「太田様とは古くからのお知り合いで」
「お前の父の邦源と同じく武術仲間だ。ただ太田様はわ
しより七つ上だ」
「では今年で七五歳」
「そうなるな。去年、わしが六十七歳と言ったのをよく
覚えていた。太田様は若いころから、寺の住職となり一
生を終えるのが夢なのだとよく言っていた」
「それで、太田様が行く寺はあったのですか」
「あった」
牧羊はそう言うとお香を見てほほえんだ。
思わせぶりな様子にお香は焦れて、
「いったいどこの寺でございましょうか」
と牧羊の答えを催促する。
「あったがどこかは分からぬ。太田様の要望に答えよう
と様々な寺を調べ、多くの人に手紙を書き、住職不在の
寺を探した。その結果、お前の父から来た手紙に「依頼
に答えられる寺がある」と書かれていた。どこぞの寺か
は探している方が堅田にきてから教えたほうがよいと思
うので、ぜひこの手紙を持たせて邦源の許に寄こしてほ
しいとのことだった」
「父は、探しているのが太田様と知っていたのでしょう
か」
「邦源の手紙にだけは、太田様のことだと書いた。太田
様と邦源は単なる武術仲間ではない。信長が亡くなるま
で、太田様は大津代官であったのだ。堅田の実力者岡本
家とは大いに懇意にしていた。だから太田様が世を捨て
たいとの思いを察し、わしにも教えず、己の胸のうちの
みに太田様の行く先を納めようと邦源は考えたのだ」
「父は信長の遺書のことを知っていて、太田様を世間か
ら隠そうとしたのでしょうか」
牧羊は、旅人に憩いを与える大樹のような荒々しくも
優しい雰囲気を漂わせながら、大きく頷いた。
「秀吉が太田様を己の警護役にしたのは、信長の遺書を
所有しているという噂の真偽を確かめたい気持ちもあっ
たからだ。しかし太田様は信長の遺書など存在しないと、
秀吉に明言した。秀吉にはそれで充分だった。天下最高
の戦術家は豊臣秀吉でなければならぬ。信長の遺書はあっ
たら焼くだけだ。ないならそれまでのことになる」
「しかし太田様は持っていたのですね」
「手紙からひと月後、太田様は寺に来た。邦源の手紙を
見せると、旧知の邦源の世話になるのも何かの縁であろ
うと喜んで、その手紙を持って寺を出て行こうとした。
その時わしが信長の遺書について問うと、おぬしと会う
のは今日が最後だと、「天翔将星記 (てんしょうしょう
せいき)」と表紙に書かれた一冊の書物を見せてくれた」
「読まれたので」
「うん。「天仰実相円満、兵法逝去、有何処兵法天下無
双」という書き出しでさらに「臨機応変は良将の達道な
り。武を講じ、兵を習ふは軍旅の用事なり。心を文武の
門に遊ばせ、手を兵術の場に舞はせて、名誉を逞しくす
る人は、其れ誰ぞや。尾張の英産、織田信長公也」と続
いていたが、あとは読むのを止めにした。わしが読んで、
さらに強くなっても仕方がないからな」
お香は午後四時に宝岩院を去った。
太田牛一の所在は、父邦源が知っていたのだ。
そして信長の遺書の存在も確認できた。
そのことを正英に告げ、それから堅田へ、と思ったの
だが牧羊との対話は、お香の心を和らげさせていた。
まだ日のあるうちに嵐山の紅葉の世界を味わいたいと
いう思いに駆られ、天龍寺の紅葉に彩られた曹源池を中
心に嵐山を借景とする池泉回遊式の庭園を鑑賞しながら、
北側の裏門を出て、空気もひんやりとして心を落ち着か
せる竹林の道に入っていった。
周囲すべてがかなりの高さの竹に囲まれた空間で、歩
くだけでも人を異世界に来た思いにさせる場所である。
行き交う人もなく、ただ一人竹林に遊ぶお香は童心に
戻り、いつも持っている指人形を手につけて、正英さん
おこっちゃいやーよとか、ごはんでちゅ、などと一人ま
まごとに興じていた。
その時、
「我が妹弟子、お香よ。元気だったか」
という声が、地底深くの穴から呼びかけて来るように、
聞こえてきた。
夢見心地のお香が、どこから聞こえてきたのか、ぼん
やりと周囲を見回すと、声の主はお香の五、六メートル
先の切り株に腰を下ろして、お香を見ていた。
赤ら顔のその男は、戸沢白雲斉門下でお香の兄弟子に
あたる、猿飛佐助であった。
以下百六十五に続く