第三部江湖闘魂完結編百六十二「決闘 牧羊対竜雲」
「牧羊様以外では、やはり九〇年の拳論会に優勝された上総
大多喜善良寺の住職竜雲和尚の名がよく出ます」
「竜雲か。父上は出ぬか」
「九〇年の拳論会の準決勝で竜雲和尚に負けていますから」
フンッと牧羊は鼻で笑った。
「世間とはそういうものだ。物事の表面だけを見て、気楽に
評価を下していく。そして虚像が一人歩きして実像を凌駕 (
りょうが)していく」
「牧羊様、父への配慮、ありがとうございます」
お香が素直に礼をいうと、牧羊は大きく首を振った。
「邦源の器量は竜雲に負けるものではない。わしは竜雲の力
を知っているのだ。九〇年に竜雲は試合を申し入れて来たこ
とがある。拳論会に勝った竜雲は、わしの武名を聞いてわし
も倒して、己の力をさらに世間に誇示しようとしたのだ」
「拳論会で優勝したのに、それ以上を望んだのですか」
「人の欲望に限界はない。わしは拒否した。勝ち負けのため
に武術をするにあらず。精神修養の一環であるとな」
「竜雲様はそれで帰られたのですか」
牧羊は鮮やかな紅葉を見ながら述懐した。
「私も仏に仕える身。突如来訪して失礼なことを言ってしま
いました。お詫びといってはなんですが、一節、尺八を吹か
せていただけませんかと頼んできた」
「風流といえば風流ですね」
「何の。根来山王拳の奥義の一つに古尺破音波 (こしゃくは
おんぱ)というのがあるのよ。尺八の音に気を込めて、相手を
動けなくする技だ。場合によってはその音波そのものが殺人
音波となり、人を殺傷することもある。古尺破音波をわしに
使おうとしただけだ」
お香は牧羊の話を聞くうちに、竜雲和尚が次第に恐ろしい
者に思えてきた。
「それで牧羊様は」
「竜雲が手の内が見えたからには、音には音だ。ならば二人
で演奏するかと、わしは本堂から横笛を持ってきた。十メー
トルくらいの距離だったか、竜雲の許に行こうとしたわしに
向かい、なんと先手を打って尺八を吹き始めたのだ。空気を
切り裂きながら音の波がわしに襲い掛かってきた。いくつか
の音波をかわして、わしも笛を鳴らした。お互いの気を込め
た「音」がぶつかり合い、その激しさから木々の何本かが倒
れたほどだ。三十分くらいのせめぎあいの後、わしの「気」
を込めた音波が勝ったのか、竜雲の尺八が破砕してしまい、
勝負は終わった。そのままわしの「気」を受けた竜雲は三十
メートルほど飛んで行ったな。したたかに地面に叩きつけら
れしばらく起き上がれなかったが、何とか立つとふらふらと
山門を出て行った」
「牧羊様はそれ以上攻めなかったのですか」
「そこが竜雲とわしの違いだ。竜雲は明らかにわしを殺そう
としていた。自分より強いものの存在を絶対に許さぬという、
誤った武術家の誇りが奴を狂わせたのであろう。正しい修行
をした真の武術家ならば、他者との共存共栄を目指す。まし
てわしは御仏の教えを学ぶ身だ。相手を殺そうとは決して思
わぬ」
「しかし、竜雲様も根来寺で修行された身では」
「根来寺は武術の修行とともに真言密教の教義の勉強もひたす
らさせる、武林の誇りともいえる寺だ。その寺に竜雲のような
者が現れたとはな。竜雲自身が、元々邪悪な性質を持っていた
のではないだろうか。形は僧だが、わしにはケダモノに見えた。
恐らく邦源も竜雲の本性を準決勝の試合中に見抜き、勝ちを譲っ
たのであろう。邦源一人の身なら死力の限りを尽くしたであろ
うが、堅田の民をその背中に負っているのだ。ケダモノに負け
ても恥ではない」
「たしか決勝では細川様が、岡本邦源に勝った竜雲に勝てるわ
けがないと辞退され、竜雲様の不戦勝になったそうですが」
「それも同じ理由だ。細川様は大名だ。発狂した犬の相手をす
るほど暇ではなかろう」
お香は竜雲和尚に対する牧羊の評価を聞くうちに、今日の己
の振る舞いもケダモノの所業に思えてきた。
「牧羊様、私もケダモノの心を持っている気がしてきました。
竜雲様だけのことではないと」
牧羊はうれしそうに笑い、
「他人を鏡として己を見つめる力があるのは、人間以外にない
のだ。ならばそなたは人間ということになる。安心しなさい」
といい、さらに付け加えた。
「我が臨済宗の祖、栄西禅師曰く、「天地、我を待って覆載し、
日月我を待って運行し、四時我を待って変化し、万物我を待っ
て発生す。大いなるかな心や」と。お香、心の鍛錬を武術以上
にすべし」
明鏡止水。
お香は牧羊の話を瞳を輝かせて無心に聞いた。
そして牧羊の言葉を深く心に刻んで、寺を後にしたのである。
以下百六十三に続く