第三部江湖闘魂完結編百六十一「牧羊和尚との対話」
老僧は呆然となったお香を抱えて立ち上がらせた。
「お嬢さん、大丈夫か」
お香の様子を心配する。
お香は、
「お坊様、私は心も体もまだまだ修行が足りないと痛感し
ました。先ほどは参ったふりをして、攻撃するなど卑怯な
振る舞い、お許しください」
と詫びる。
「ハハハッ、参ったといいながら凄い殺気だ。よしそれな
ら付き合おうかと、わざと構えを崩して、攻撃を誘ったの
よ」
「私は、お坊様がわざとスキを見せたとも知らずに、無謀
な真似をしたのですね。御仏の手の平で飛び回っていたこ
とも知らずにおごり高ぶっていた、傲慢な孫悟空になった
思いです」
「いや、わしはそれほどの者ではない。仏様との比較は許し
ておくれ」
老僧はそう言いながら、「南無釈迦 牟尼仏」と念仏を唱
え、御仏への畏怖の念を表す。
「私の動きを止めた最後の技の名をお聞かせ願えますか」
お香の頼みに、
「ウーチンアンという技だ。わが派では、技の名はすべて中
国語でいうが、日本語なら「武静安」だな。相手の武の動き
を静かにし、心を安らかにさせるという技だよ」
と丁寧に説明した。
「声に気を込めて、その音波で点欠と同じ効果を生ませるも
のと考えて良いのでしょうか」
「そういうことだ」
お香は老僧の言葉に深く頷くと一礼して、参道を門に向かっ
て歩き出した。
「お嬢さん。牧羊和尚に会わなくて良いのか」
老僧がお香に声をかける。
お香は振り向いて別れの言葉を述べた。
「まず私の攻めでお坊様の体を少しでも動かせるように、己
の技を高めてから、牧羊様にお会いしたいと存じます。牧羊
様に会おうなどとは未熟者の思い上がった言い草だったとお
笑いくださり、今日のことは忘れてくださいませ。それでは」
「この寺には、わしと寺の雑用をしてくれる夫婦がいるだけ
だぞ」
老僧はお香の話をさえぎるように言った。
「エッ」
「この寺には坊さんはわしだけじゃ」
老僧はなおも言った。
それを聞いて、お香は恐る恐る訊ねる。
「すると、あなた様が」
「すまん。意地悪をしたのぅ。しょっちゅう武者修行の者が
来るので、いつも取り次ぎ役の芝居をしているのだ。めった
に名乗らぬが、お嬢さんは別じゃ。技の鋭さには驚いた。基
本は堅田水舟拳じゃろ。」
お香はこの老僧が牧羊和尚本人と聞いて狼狽したが、せっ
かくの好機と牧羊の問いに応じた。
「はい、幼いころから父岡本邦源の元で堅田水舟拳を学び、
さらに信濃の戸沢白雲斎様に弟子入りし、白雲斎亡き後、修
行の旅を続けています」
牧羊は大きく頷いた。
「なんと邦源の娘か。さもあらん。この技の速さは、若いこ
ろの邦源じゃ。その上、信濃忍法の祖戸沢白雲斎殿に学んだ
とは。今日は良き相手にわしも巡り会ったものだ」
「父をご存知で」
「わしは今年で六十七じゃ。父上より八歳ほど上だが、同じ
修行仲間のようなもんだ。若いころの邦源はよくこの寺に来
て、わしに試合を挑んでな。今日のお嬢さんのように」
お香は縁という言葉を思い出した。
見えない糸で人は結ばれているというが、まさか父の名が
この場に出るとは。人のつながりの不思議さを感ぜずにはい
られなかった。
しばらく父の話を牧羊から聞いたあと、お香は武者修行の
行く先々で、「牧羊和尚こそが、あの伝説の最強武術家平安
百勝だ」との噂を聞かされたことを話した。
牧羊は大笑いをしながら、
「わしが、美里正拳の最終奥義「平安百世」という技を使え
るはずがなかろう。何でも平安百勝というものは、その技で
六〇年の「美里拳論会」を中止に追い込んだそうだが、わし
は一度も拳論会にでたこともない。どういう技か見てみたい
ものだが、おそらく美里正拳の継承者表正左衛門以外に「平
安百世」を使えるものはいないだろう」
と言った。
「では平安百勝は表家の方々ですか」
「理屈で言えばな。理屈通りにいかないのが人の世だが。せっ
かくだから、旅先ではわし以外にどんな武術家の名前が出る
のか聞かせてくれぬか」
以下百六十二に続く