第三部江湖闘魂完結編百六十「攻めてるお香」
お香は両腕を水平に伸ばし肩のあたりまで上げた。
(フワリッ)
とその姿勢のまま両足が地面から離れ宙に浮いていく。
老僧の胸の辺りまで浮いたとき、凄まじい速さの蹴り
が老僧に向かって放たれた。
その数、十秒間で百二十回。
泰然自若。
老僧は合掌の形を崩さぬまま、十秒間で百二十回の上
半身の捌きのみでお香の攻撃を交わし続けた。
お香は正面攻撃がかなわぬと見るや、クルリと一回転
しながら老僧の頭上を越え、そのまま背中に蹴りを入れ
る。
老僧の背中深くにお香の蹴りがめり込んでいったかに
見えたが、寸前に体を前に直角に倒し、起き上がりこぼ
しのようにまた元の姿勢に戻り、お香の蹴りをかわした。
老僧の背後を抜けたお香はそのまま銀杏の木に飛び蹴
りをしてその反動で空中十メートルまで上がる。
戸沢白雲斎直伝の甲賀流信濃忍法「さるとび」である。
十メートルほどの高さから一挙に老僧の脳天をめがけ
落下していく。
こぶしを作った両手を前に突き出した形で垂直に落ち
ていく。
その態勢のままお香は老僧の脳天に右のこぶしを叩き
込もうとした刹那、それまで胸の前から位置を変えなかっ
た合掌した両手の平を、姿勢は変えずにそのままグイッ
と頭上高くに上げ、両手の指先でお香の右こぶしを受け
止めた。
一瞬、老僧の頭上の指先を接点にお香と老僧は空中に
延びた一直線の物体になった。
老僧は己の指先から体内の気をお香の体に伝導させた。
その厳しすぎる「気」の放出にお香の体は耐えられず、
吹き飛ばされて老僧の前方に転がり落ちた。
お香はそのまま地面に這いつくばり、
「参りました」
と大声で叫んだ。
老僧は頭上にあった両の手の平を胸の前まで下げ、そ
れから合掌の形を崩し、優しげに笑う。
其の時、
「てな訳 (わけ)無いだろ、このボケが」
とお香は怒鳴りながら老僧に向かい突進し、右の正拳
で殴りかかった。
「無眼界 乃至無意識 (むげんかい ないしむいしき)」
老僧が般若心経の一節を唱えるとお香の体は、老僧に
こぶしを繰り出したところで固まってしまった。
行動不能に陥ったのである。
思考と言葉は行動可能であった。
それは、点欠(特定のツボを突いて体内の気の流れを
停止させ相手の行動を停止させる。草津の近くの街道で
井原正英が高西暗報に仕掛けた技である)をされた状態
に似ていた。
しかしこの老僧は、お香の体に触れてはいない。
般若心経の一節を唱えた声の中に「気」を込め、その
声の音波の力でお香に点欠したのである。
お香は敗北を認め、「お許しください」とあわれみを
乞うた。
老僧はお香の股ぐらを触り、それから胸を揉んだ。
(このエロじじい)
お香が思ったとき、
「男でないのか。おなごでもここまでの技が使えるとは」
と感嘆の声を発し、
「近頃おなごの格好をする男もいてな、確認させてもらっ
た。お許し下され」
と丁重にわびた後、
「無無明亦 無無明尽 (むむみょうやく むむみょうじ
ん)」
とお経を唱えた。
するとお香の手足は楽になり、そのままお香は地面に
べたりと座り込んだ。
まさに圧倒的な老僧の武術の前に己の卑小さを自覚さ
せられ、その精神的衝撃から立ち上がる気力もうせたの
である。
以下百六十一に続く