第三部江湖闘魂完結編百五十八「京都五山拳法派」
第三部江湖闘魂完結編百五十八「京都五山拳法派」
ひとりひとりはるかな道は
つらいだろうが頑張ろう
苦しい坂も止まればさがる
続く続く明日も続く
銀色のはるかな道
(銀色の道 作詞塚田茂)
雑賀孫市は、高明寺を去りすでに薄墨色になりつつある長
岡の町に出て行くお香のために、「銀色の道」を歌いながら
見送った。
「苦しい坂も止まればさがる」に特に力を込めて孫市は歌っ
たが、それは己自身を励ます意味もあったのではないかと、
背中越しに歌を聞きながらお香は思った。
八十五年に会ってからは、その後三回大田牛一に会ったと
孫市は言った。
一度は九〇年に、秀吉の要請で太田が武士に復帰すること
になったとき。
二度目は孫市が九二年に、高明寺の寺男になったことを、
孫市自ら大阪の太田のもとに内密に知らせに行ったとき。
そして三度目は、九八年に秀吉が死んだとき。
わざわざ高明寺を訪ねてきた太田は孫市に、
「秀吉様が亡くなられたので、やっと仏門に戻れる。どこか
の寺の僧にでもなるつもりだ」
と言い、しばらく話をして太田が去るとき、孫市がどこの
寺の僧になるのか、あてはあるのですかと問うと、
「牧羊和尚に相談しに行く」
と言ったという。
孫市は、どこの寺の和尚か聞かずに別れたので、その後の
行方は分からないとお香に告げた。
しかし、お香はその「牧羊和尚」の名を聞いて高明寺を去
り、京に戻ることを決めたのだ。
十年近く寺とその周辺しか知らない孫市には、「牧羊和尚」
は聞き慣れぬ名であったようだが、お香は嵐山の名刹「天龍
寺」の塔頭寺院のひとつ宝岩院の住職であることを知ってい
た。
牧羊和尚は、元は大津の生れであり、幼いころから文武両
道に秀でた人物で、高雄山東命寺派と京都を二分する武術で
ある京都五山拳法派の統帥として名を馳せていた。
京都五山拳法派は、京都の禅宗寺院を中心に発展した武術
集団であり、その起源は十三世紀に渡来した中国少林寺の禅
僧、右赤光 (ゆうしゃっこう)に始まる。
本場中国の最新の武術を取り入れた当時としては新興の流
派であった。
ここ数年を武者修行で諸国行脚に明け暮れていたお香は、
多くの武術家から、今日本で一番強いのは京都宝岩院の住職
牧羊和尚だと聞かされていた。
当然の如くお香の足は京都に向いた。
宝岩院に行き、牧羊和尚に一手ご指南をと手合わせを願い、
そのまま真剣勝負に持ち込んで、己の技の水準を確かめたいと
いう欲望に駆られたのだ。
そして昨年、その欲望が満願する。
大亀山 宝岩院は、一四六一年室町幕府の管領であった細川
頼之公により、天龍寺開山夢窓国師から三世の法孫にあたる聖
仲永光禅師を開山に迎え創建されたことに由来する。
寺は本堂まで続く参道が四十メートルほどあり、道の両脇に
は高明寺と同様にもみじの木々が並んでいる。
お香が一年前宝岩院を訪れたときも今と同じくやはり晩秋で、
見事な紅葉が参道にあふれていた。
参道を少し歩くと、六十過ぎであろうか老僧が一人で落ち葉
を掃いていた。
やせてはいるが、背は一七〇センチあまり、背筋の伸びた立
派な姿の僧である。
以下百五十九に続く