第三部百四十八「下賀茂神社の激闘その一」
第三部江湖闘魂完結編百四十八「下賀茂神社の激突その一」
相嘗祭出席命令は、勧修寺晴豊を暗殺せんがための九条兼
孝の罠ではないかという推測は、晴豊の周囲を警護する所司
代の者たちには容易についたのだが、肝心の晴豊は全く警戒
心がなく、板倉勝重自ら外出を控えるべきでは、と直言して
も、笑うばかりで、朝廷の重要な行事に出ている最中に刺客
を送るなどあり得ぬことと、取り合わなかった。
さらに百人単位といった物々しい警護は、自分と徳川の関
係を都の人々にさらしてしまい、自分が親徳川の人間だと表
明するようなもので、それには抵抗があるというのだ。
自分は徳川のためではなく、民衆の将来の平和を考えて動
いているので、親徳川と何も知らぬ民衆から思われては心外
であるといいだしたのだ。
仕方なく、所司代は晴豊のための百人前後の警護の予定を
変えて、騎馬の伊賀者十名と徒歩の同心二十名を警護につけ
た。
その責任者は所司代付きの伊賀者の副組頭を務める藤木陣
内である。
上賀茂神社の祭りは昼過ぎに終わり、軽い昼食をとった晴
豊は、突如、下賀茂神社内の糺の森 (ただすのもり)に向かい
紅葉を楽しみたいといいだす。
糺の森は下賀茂神社の南側にひろがる美しい森。
『源氏物語』、『枕草子』をはじめ、数々の物語や詩歌管
弦にうたわれてきた名所で、約十二万四千平方メートル、東
京ドームの約三倍の広さがあり、ケヤキ、ムク、エノキなど
約四十種類、樹齢二百年から六百年にもなる太い樹木が約六
百本生い茂り、四季折々の色合いをなす森の中を奈良の小川、
瀬見の小川、泉川、御手洗川がさらさらと流れ、当時もいま
も静かな憩いの場として京都の民衆に親しまれている。
藤木陣内は襲撃の可能性もあり、そのまま勧修寺邸に戻る
ことを勧めたが、
「麿が下賀茂神社にいくことを誰が予想しようか。襲撃の準
備もできまい。心配は無用でおじゃる」
と晴豊は意に介さず、三十名の警護の人間に周囲を取り巻
かれる格好で下賀茂に赴くことになった。
下賀茂神社の境内は、銀杏と紅葉の絨毯 (じゅうたん)の
中にあった。
伊賀者たちは馬から降り、晴豊を包み込むように歩き出す。
その前後に同心が付く。
異様な紅葉狩りの行列の最後尾に山内記念がいた。
二日前の青葉屋襲撃で、高西暗報と宮内平蔵を今一歩のとこ
ろまで追い詰めながら、取り逃がしたことへの悔恨から晴豊
への警護役を志願しての参加であった。
記念はもし襲撃があるなら、この糺の森 (ただすのもり)で
はなく帰りの路上ではないかと考えていた。
晴豊と同様に敵方に襲撃の準備が出来るはずもなく、危険
を冒してまでの無理攻めをするはずもないのだ。
(せっかくだから、紅葉を楽しもう)
と記念は内心思っていた。
糺の森内にある下賀茂神社の参道を歩けば、厳粛な気持ち
になる。
参道から少しはずれれば、あちこちを小川が走っていて、
小川の周辺の草や苔などの緑の濃淡が鮮やかで、木々の紅葉
と地面に落ちた赤や黄色の木の葉との見事な調和に、記念は
魅了された。
しかし、泉川沿いを進みだしたとき、
(なにかある)
と記念の第六感がそう告げていた。
記念は険しい表情であたりをうかがう。
静かである。
小鳥の鳴き声すらしない静寂。
「うっ」
「ぐっ」
晴豊の左側面を警護していた伊賀者二人がその場にうめき
声とともに倒れこんだ。
赤い落ち葉の上に鮮紅色の血の色が染み出していた。
いつ来たのか土中からあふれ出たように五人の黒装束の者
が晴豊の左側面五メートルのところにあらわれ、一斉に卍手
裏剣を投げたのだ。
倒れこんだ二名の伊賀者には眼もくれず、藤木以下の八名
の伊賀者は晴豊に密着し円陣を組みながらその中心に晴豊を
置き、馬を留めてある参道の入り口にむかい前進する。
前方の同心たちはいっせいに、刺客の五人にむかった。
其の時、今度は右側面五メートルの地面がくずれ、跳ね上
がり、土片が空中に散乱し、その中から十名のやはり黒装束
の刺客が飛び出してきたのだ。
二番手の暗殺隊である。
地面に浅く穴でも掘り、そこに伏して上から土と木の葉を
かけていたのか、地面と一体になり、己らの気配を消し暗殺
の機をうかがっていたのだ。
最初の五人も同じように地面に潜伏していたのである。
これぞ大化の改新以前から烏丸家に仕える植山衆の秘伝、
「土蜘蛛の陣形」であった。
以下百四十九に続く
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